オーディオドラマ「五の線3」

闇と鮒

石川県を舞台にした創作のお話「五の線」シーズン3です。

  • 21 minutes 31 seconds
    191 第180話
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    17時半

    「おい!椎名!マサさん!返事しろ!」

    片倉が無線機から何度も椎名と富樫の名前を呼ぶ声が聞こえていた。

    「Слава Отечеству。」
    「では始めよう。」

    椎名は車両の中のキャビネットをまさぐり、武器を手に取り始めた。

    「あぁすいません。無線の調子が急におかしくなってしまって。」
    「なんや、ジャミングか。」
    「わかりません。急に音が聞こえなくなってしまって。」
    「椎名は。」
    「出ました。」
    「なに?」
    「いま車から出ました。」
    「な、もう!?」

    森本の前に座る椎名はにやりと彼に微笑み返した。
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    交番の中で待機していた古田はおもむろに立ち上がった。

    「どうしたんですか。」

    相馬が声をかける。

    「ちょっくらビルの方にいってくる。」

    この場にいる古田、相馬、児玉、吉川はいま商業ビルで何が起きているのかを無線を通じて把握している。

    相馬「今から行ってどうするんですか。」
    古田「あそこには久美子がおる。」
    相馬「久美子…。」

    相馬の表情が曇った。

    古田「ワシの最重要任務は久美子の観察と保護や。いまワシがここに居ることは主任務じゃあない。」

    相馬は何も言えなかった。

    「なんだ。久美子ってのは。」

    吉川が尋ねた。
    しかしこれを説明するには時間がかかる。

    相馬「公安特課重要監視対象です。鍋島能力の真相解明の鍵を握るとされる人物です。」

    古田は6年前の鍋島事件から、この久美子の監視要員として警察との雇用契約を結んでいる。そう相馬はざっくりと説明した。

    吉川「ならばやむを得んな。」

    吉川はどこか残念そうな顔である。

    古田「久美子の保護が確認されれば、すぐに戻る。もしも情報があればすぐに寄こしてくれ。」

    こう言って古田は交番を飛び出して駆け足でビルに向かった。

    「どうした吉川。」

    古田が駆けていく様子を窓から見つめる吉川に児玉が声をかけた。

    「なんだろう…。猛烈に嫌な予感がする…。」
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    「はい。みなさん!押さないで!落ち着いて!」

    商業ビルの一階正面入り口に来ると、警察官が避難誘導をしていた。
    今日は5月1日金曜日。明日は土曜。明後日は憲法記念日。翌日はみどりの日。そして5日はこどもの日だ。いわゆるゴールデンウィークの後半戦が明日から始まる。4月29日の昭和の日から有給休暇を巧みに利用して、すでにゴールデンウィークに入っている人も少なくない。アパレルと飲食、映画館間が入る商業ビルのウィークデーの客の入りはさほどでもないが、この日の17時半現在のここは、観光客を含めてかなりの客数であった。

    「おい。」

    古田は警察手帳を警察官に見せた。
    古田の階級は警部である。県警本部では課長補佐、警察署では課長クラスであるため、この手の現場警察官より大体が上位の階級となる。

    「どうや。誘導の状況は。」

    発砲があり、一部の人間が上階に戻ってしまった。そのほかは順調にビルから捌けられている。そう彼は答えた。

    「一部の人間って。」
    「外国人です。日本語が分からないんです。そこにこのパニックです。通訳もいませんので手を焼いています。」

    古田は彼の労をねぎらう言葉をかけ、そのまま上階目指して歩き出した。
    エスカレーターは止められていた。
    普段は登りと下りというように使い分けされているが、一階から二階へ続くエスカレーターは両方が下り専用の階段となっていった。
    ここを逆流するように進むのは無理だ。
    古田は業務用の階段を探し、それを登り始めた。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    「はぁ、はぁ、はぁ…。」

    マイペースに山を登るのと違って、今は一刻を争う状況。はやる気持ちと同じペースで階段を上った古田の呼吸は大きく乱れていた。
    3階まで上がって山県久美子が勤務するショップの様子を覗う。そこはすでにもぬけの殻であった。

    「もしもし。ワシや。」

    古田は電話をかけた。相手は古田の代わりに山県久美子を監視していた協力者である。
    商業ビルからの避難のアナウンスが流れ、彼女は店の売上金などを手にして業務用の階段で一階に移動。途中、オーナーらしき男性と合流したところで発砲音があり反転、上階へと移動したという。

    「お前さんは。」
    「近くにいると怪しまれると思ったので、一旦ビルから出ました。」

    ならばここからは自分が久美子を見に行く。そういって古田は通話を切った。

    「確かここは7階建てやったよな…。」

    3階まで上がってきてこの息の切れ具合である。7階まで果たして自分はたどり着けるだろうか。などと泣き言に近い声を発した。そして手すりにつかまり、古田は一歩を踏み出した。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    商業ビルの7階は映画館がはいっている。スクリーン数は全部で9つ。
    軽食を販売するコーナーの前にはソファが並べられており、そこに一階から避難してきた外国人が座っていた。

    「お願いだから下に降りてください。」

    誘導に当たっている警察官が日本語でこう彼らに呼びかけるもシカトである。
    お互いがよく分からない言語で何かを話し、どこかおどけているようにも見受けられた。彼らの表情には危機感というものがない。ひょっとするとこのパニック状態を楽しんでいるのではないか。そう警察官は感じた。

    「こちら7階。だめです。呼びかけに応じてくれません。」
    「応援は到着したか。」
    「いいえまだです。」
    「おかしいな…。もう到着しても良いはずなんだが…。」
    「どうしましょうか。あいつら完全無視です。」
    「仕方が無い。携帯の翻訳アプリとかでなんとかコミュニケーションをとってみろ。」
    「携帯アプリですか…。」

    警察官はその発想はなかったと、思わず手を叩いた。

    「何語しゃべっとるんや。」
    「多分…英語…。」

    この警察官。外国語のことはとんと分からないクチの人間らしい。そのことを無線を通じて悟ったのか、指揮を出すもそこで思わず黙ってしまった。

    ここで携帯アプリを起動させようとしている警察官の肩を叩く者があった。
    森だった。

    「お困りのようね。」

    手を差し伸べる彼のエレガントな様子に反して、その息は階段を上ってきたことによって見事に切れており、そのアンバランスさが警察官の笑いを誘った。

    「なっ何よ…人が…親切心で…言ってるのに…。」
    「英語だったら…私、少しは…。」

    森の隣で同じく息を切らしている女性がかろうじて声を発した。久美子だ。

    「本当ですか!それは助かります。」
    「一体…なにが…あったんですか…。」
    「実は爆発物が見つかったんです。」
    「はぁ…はぁ…。…え?」

    久美子と森が固まった。

    「で更なるテロの兆候があるため、このビルから民間人は退去して欲しいんです。」
    「嘘でしょ!」

    森の大声に軽食コーナーにたむろする外国人達が一斉にこちらを見た。

    「こっち見ましたよ。」
    「話しかけには応じてくれそうね。」
    「私通訳しますから、一緒に来てください。」

    久美子は警察官の手を引っ張って、彼らの前に立った。

    警察官「このビルで爆発物が見つかりかりました。その処理をするので、このビルにいる人は全員退去してください。」
    久美子「An explosive device has been found in this building. We are in the process of handling it, so everyone in the building must evacuate immediately.」

    久美子が通訳する言葉に彼らの中のひとりが応えた。

    黒人「Why? I’m not afraid of explosives. Just go ahead and handle it without me.どうして?俺は爆発物なんてへっちゃらだ。勝手に処理してくれ。」
    久美子「I understand you might feel confident, but for your safety and the safety of others, it’s crucial that everyone evacuates the building. The situation is being handled by professionals, and it’s important to follow their instructions.わかりますが、あなたの安全と他の人々の安全のために、全員がビルを退去することが重要です。専門家が処理を行っていますので、彼らの指示に従ってください。」

    警察官をすっ飛ばして久美子が外国人に返答した。

    「Hey, lady. I’m really enjoying this empty movie theater. Just look at it—I’ve only seen such a cool scene in zombie movies.おいおいねぇちゃん。俺はこの人がいない映画館の空間が気に入ってるんだ。見てみろよ。こんなクールな光景はゾンビ映画でしか見たことないぜ。」
    「I get it, the atmosphere is definitely unique, but for your own safety, it’s best to leave for now. You can always come back when everything’s safe, and the experience will be even better!わかります、その雰囲気は確かに特別ですね。でも、今は安全のために退去した方がいいですよ。すべてが安全になったらまた戻ってきて、さらに良い体験ができるはずよ!」
    「You’re talking about safety, but that would be a problem for me.安全って言うがよ、そうなっちまうとこっちが困るんだよ。」

    こう言うと久美子と会話をしていた黒人が素早く銃を取り出した。そしてそれを即座に天井に向けて数発撃った。

    パンパン

    思わず久美子と森、そして警察官はその場にしゃがみ込んだ。

    「Just stay calm.おとなしくしてな。」

    「What are you doing!?」

    大きな声が聞こえた。その方を振り返るとサングラスに制服姿の警察官がアサルトライフルを構えてこちらに向かってきていた。

    「え?何だあいつの格好…。」
    「どういうことですか。」
    「警察官であんな物騒な銃持ってるの、SATくらいなんだけど…。」
    「SAT?」

    この時久美子はライフルを構えてこちらに向かってくる制服警官と目が合った気がした。

    「Hey, what the hell did you guys do?」
    「What did you do to Saki!?」

    怒声のようなものを発しながら制服警官は銃を構えてこちらに近づいて来る。

    「あの…何言ってるんですか。」
    「お前達何やったんだ。さ…き?人の名前かしら…。サキに何したんだって怒ってる。」
    「サキ?」
    「…えぇ。」
    「目を瞑れ!」

    こう言って何の前触れもなく、制服警官が何かをこちらに向かって投げ入れた。

    「伏せろ!」

    咄嗟にその場の久美子と森、そして警察官は制服警官の指示通りの行動をとった。

    「Sit!!!!」

    閃光と同時に発砲音の数倍もあるかと思われる爆音が久美子の耳元で鳴った。
    動けない。経験の無い轟音は人間の行動自由を奪った。久美子は閃光後うっすらと開いた目を持って、煙立つその場の様子をただ見つめるだけだ。
    バタバタと人が倒れていく。
    肉の塊に成り果てたものもあれば、痛みのためかその場でジタバタと身体を動かしている者もある。血が肉片が飛び散り、それが自分の手や頭に付着する感覚を覚えた。
    聴覚が回復してきた。
    キーンという耳鳴りのようなものの背後に連射する銃声が聞こえてきた。しかしそれもものの数秒で消えた。

    「You dare to mess with us, knowing we’re Almiyaplavsdia…?」
    「Yeah, I know everything.」

    最後の銃声が聞こえた。
    本当の静寂がこの場に訪れた気がした。
    久美子はゆっくりと身を起こした。
    信じられない光景がこの場にあった。
    まるで戦争の一幕だ。
    10名程度の遺体が自分の周りに転がっている。その遺体の様子に反射的に嘔吐をもよおした。

    「大丈夫か。」

    久美子の前方10メートルの距離に立った制服警官は彼女に声をかけた。
    しかし彼女はそれに応えることはできない。目の前の状況を受け入れることができないからだ。
    彼女は再び嘔吐した。

    「大丈夫そうだな。」

    こう言って制服警官はゆっくりとした足取りで止まったエスカレーターに向いたときのことだった。

    「待って!」

    背後から呼び止められた制服警官は振り向いた。

    「あなた…。ここ数日、私のこと見てたでしょう!」

    制服警官は床に座り込んでこちらを見つめる久美子の顔を見つめる。

    「何のことかな。」

    呟くように発せられた彼の声はきっと久美子には届いていない。だが久美子には彼の様子を見て何を言ったか感じとった。

    「とぼけないで。あなたよね。遠巻きに店の様子を監視していたの。」
    「…。」
    「サキって何。」

    彼の表情は一瞬固まり、次の瞬間には明らかに動揺が広がった。
    久美子はそれを見逃さなかった。彼が「サキ」という名前に何か反応したのは確かだ。彼女は冷静さを保ちながらも、内心では手応えを感じていた。

    「サキ…それが何なの?」

    久美子は更に問い詰めた。彼の沈黙が続く間、彼女は視線を鋭くし、彼の目をじっと見つめた。静かな緊張感が辺りに漂い、時間がゆっくりと流れるように感じられた。

    制服警官は、言葉を選ぶかのように、口を開くのをためらっていた。そして、ついにその沈黙を破るように彼は低い声で言った。

    「サキは…関係ない。お前には関係ないことだ。」

    警官は口を閉じ、久美子を見つめ返した。言葉にしづらい葛藤が見え隠れしていた。身を起こした久美子はそのまま一歩前に出て、彼に近づいた。

    彼の目に浮かんだ葛藤の色が一瞬濃くなり、次の瞬間、制服警官は決断を下したようだった。彼は久美子から視線を外し、ふっとため息をつくと、何かを諦めたかのように顔を伏せた。

    「じゃあな…。」

    その言葉を最後に、彼は急に動き出した。まるで逃げるように、警官は背を向け、足早にその場を立ち去り始めた。久美子はその後ろ姿を見つめ、彼の言葉と行動に強い違和感を覚えたが、彼を追いかけることはしなかった。逃げるように去る彼の様子が、久美子の中にさらなる疑念と妙な安堵感を生み出した。

    「何なの…。」
    「あいつがあなたを見張ってた奴なの?」

    ようやく森が身を起こした。

    「な…に…。これ…。」

    森の目の前に横たわる遺体の数々。その中には先ほどまで自分たちと会話をしていた警察官の姿もあった。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    6 September 2024, 8:00 pm
  • 10 minutes 40 seconds
    190.2 第179話【後編】
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    金沢駅隣接の商業ビル。ここでは30分前から施設の緊急点検を行うということで、ビルに入居する店舗と来店客に一斉退去を求めていた。
    山県久美子が店長を務める店舗も例外ではなく、アルバイトを先に帰宅させた彼女は売上金や釣り銭を手持ちの巾着袋にまとめて、それを抱えて業務用の階段で移動していた。

    「久美子!」

    人の流れに逆らうようにこちらに向かって来る者があった。
    オーナーの森である。
    彼女らは一旦人の流れから距離をとった。

    「なんだかショップの方が騒がしいって聞いてきたら、なにこれ。」
    「設備に不具合があったらしくて、緊急の点検のため全員退去しろって。」
    「そんな馬鹿なことある?」

    契約警備会社だけでは対応ができないのか。POLICEと書かれたジャケットを羽織る人員もその誘導にかり出されていることを森は久美子に指摘した。

    「ひょっとしたら爆発物とか見つかったのかもしれないわよ。」
    「確かに…警察まで出てるって普通じゃ考えられませんね。」
    「正直なこというとパニックになっちゃうから。」

    もしもそうだったらこんなところで油を売っている場合ではない。森は久美子の手を握って業務用階段を駆け下り出した。
    そのときである。階下からぱんっという乾いた音に続いて悲鳴が聞こえた。

    「なに…。」

    ふたりは足を止めた。
    階下からは人が撃たれたとの声が聞こえてきた。

    「ちょっと…これ、何?一階の出口に銃を持った奴がいるって言うの?」
    「…それだと、このビルから出れないですね…。」

    今まで下へ下へと流れていたものが、逆流するように上に上がってきた。

    「ちょっと!あんた!」

    森は側に立っていた警察官らしき男の袖を掴んだ。

    「何よ!何が起こってるの!?」

    警察官は頭を振る。自分も状況を把握できていないとのことだ。

    「何よ!役立たず!」

    森はこう吐き捨てると久美子の手を取って最上階へと進路を変更した。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    「商業ビル班から本部。」

    現場からの無線がテロ対策本部に入った。

    「はい本部。」
    「現在、商業ビル一階で発砲事件が発生。けが人が数名出ています。」
    「なに!」

    片倉と岡田は立ち上がった。

    「犯人は!」
    「避難誘導の人混みのため、対象特定できず。現場は混乱しています。」
    「現場の安定と市民の安全確保と避難。引き続きこれを最優先に対応されたい。」
    「しかし犯人が取り押さえられないと、現場の混乱を鎮めることができません。一階から再び最上階へ移動する人も出てきています。」
    「そこをなんとかしろ。」

    無茶な指示だと分かっている。分かっているが今こちらにできることはない。岡田は全てを現場に委ねた。

    「それでいい。」

    片倉が岡田をフォローするように言った。

    「こちらがどうこう指示を出す状況ではない。」

    ただし言って片倉は無線マイクに口を近づけた。

    「本部から商業ビル班。」
    「はい。商業ビル班。」
    「現在こちらも対応方法を検討中だ。それまでは対応は全て現場に任せる。最良と思われる対応をとってくれ。責任はこちらが全てとる。都度の報告は無用だ。ただしどうにもならない状況になったら即座に報告をしてくれ。そのときはこちらで別の対応を図る。」
    「了解。」

    岡田は思いきった判断をする片倉を横に見て得心がいったようだった。

    「椎名。」
    「はい。」
    「いまの無線聞いたか。」
    「はい。」
    「どう見る。」
    「始まったのかもしれません。」
    「予定より早いぞ。」
    「不確実性というものもあります。始まったとみてこちらも対応を始めましょう。」
    「どうする。」
    「商業ビルの民間人を強制的に音楽堂に避難させてください。」
    「強制的に。」
    「はい。金沢駅構内の民間人も同様です。」
    「爆発物が見つかった、テロの兆候があるとしてか。」
    「それでいいと思います。ビルの中で発砲した犯人はおそらく人混みに紛れて、既にどこかに逃亡したものと考えます。奴らを捜索するのは現時点で労力の無駄です。次なるテロの恐れがある。このフレーズで大衆は自分にとって何が一番脅威になるか理解するはず。素直に言うことを聞いてくれるでしょう。」

    片倉は分かったと言って、この椎名の対応案を現場に伝えるよう指示を出した。

    「SATは。」
    「まだ不要です。ビルの発砲はおそらく威力偵察です。ヤドルチェンコは見ています。軽く一発殴って、相手がどう出るかを。」
    「ここで派手な対応を始めると、手の内をさらけ出してしまうって事か。」
    「はい。それこそ思うつぼかと。今は静観し、粛々と避難を進めましょう。」
    「マサさん。」
    「はい。」
    「そこから見たビルの様子、金沢駅全体の様子はどうや。」
    「ビルからは蜘蛛の子を散らすように人が出てきています。彼女らは機動隊員に誘導されて、音楽堂に移動しています。バス待ちの人らもビルの様子を見て身の危険を感じたのか、同じく音楽堂へ移動しています。」
    「金沢駅からは人がいなくなりつつある。」
    「その通りです。順調です。」
    「しかしあれだな…。」

    片倉はこういってしばし沈黙した。

    「椎名の言うとおり、これが威力偵察やとしたら、金沢駅から民間人は全て避難させた。駅におる人間はなにかしら警察関係者ばかり。その状況をウ・ダバは知った上で行動するっちゅうことや。」
    「はい。」
    「そんなところにウ・ダバは攻撃をしかけてくるやろうか…。」
    「飛んで火に入る夏の虫ですからね。」
    「そうなんや。」
    「来ます。」

    椎名が二人の会話を遮った。

    「来させるんです。」
    「どうやって。」
    「攻撃命令を私が出します。」
    「え?」

    そう言うと椎名は無線を切った。
    そして車両の中にいる機動隊員の姿をした男、通信員に扮した男の二名を前にあらためて座り直した。

    「君たちの名前を聞こう。」
    「森本 翔太 であります。アルミヤプラボスディアでトゥマンの後方支援を担当しています。」

    機動隊員が返事をした。

    「高橋 昇 であります。」

    通信員が続いた。

    「同じくアルミヤプラボスディアでトゥマンの後方支援を担当しています。」

    おそらく偽名であろう。ただしどちらも日本人であることは、二人の言葉の流暢さから分かる。

    「俺は今から鼓門の方に行く。これはウ・ダバ側への俺からの合図だ。奴らはすぐ近くの場所に待機している。俺の姿を見て作戦開始が早まったのは理解するはずだ。俺がこの車両を出たその時からトゥマンの作戦開始となる。」

    森本も高橋も表情に緊張の色が見える。

    「同志森本。」
    「はっ。」
    「君はこのままこの車両に留まり、富樫として振る舞って公安特課の攪乱をせよ。富樫が死んだことに気づかれた段階で同志の任務は終了だ。」
    「はっ。」
    「同志高橋。」
    「はっ。」
    「君もこの車両に留まって、同志森本と共に公安特課の攪乱に従事せよ。時折偽情報を織り交ぜることを怠るな。撤収時期は同志森本と相談の上決定せよ。」
    「はっ。」
    「本作戦は祖国ツヴァイスタン人民共和国の極東地域における軍事的プレゼンスを強化せしめるためのものである。各員一層奮励努力せよ。」

    椎名は自身の左胸に右拳をたたきつけた。

    「Слава Отечеству。」

    森本と高橋も椎名にならって同じように右拳を胸にたたきつける。

    「Слава Отечеству。」
    「では始めよう。」
    23 August 2024, 9:00 pm
  • 12 minutes 1 second
    190.1 第179話【前編】
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    青と白のストライプ柄の機動隊車両が音楽堂側の道路に駐車した。
    車の中では様々な通信機器が搭載されていて、頻繁にどこかと交信している様子だ。

    「あと30分。」

    腕時計に目を落とした富樫が呟いた。

    「5分前に出るか。」
    「はい。」

    富樫と横に並ぶように座っているのは椎名賢明だ。この車両の中には彼ら二人と機動隊員3名。通信手が2名の総勢7名が居る。
    椎名は窓に掛けられたカーテンに隙間を作り、そこからのぞき込むように外の様子を見た。窓に張り巡らされた鉄格子が視界を邪魔した。
    鉄道の運休が発表された駅からは続々と人が捌けていた。バスを待つ人の列が目立つ。
    視線を隣接の商業ビルのほうに移すと、そこからも人がバラバラと出てきている。彼らもこのバスの列に加わるのだろう。

    「あの人達はどれくらいで捌けるんですか。」
    「あと15分もすれば捌ける。商業ビルのほうの誘導も順調やと報告がはいっとる。」
    「予定通りですね。」

    富樫は椎名のこの言葉には返事をしなかった。

    「まぁ商業ビルの方は全く予定されとらんかった緊急のメンテナンスやし、テナント側からかなりの突き上げをくらっとるみたいやけどな。」
    「今日の夜に予約はいってた飲食店なんかもあるんでしょう。」

    富樫は頷く。

    「基本、アパレル関係が充実したファッションビルの体やけど、最上階が飲食階やしな。損害賠償もんや。」
    「あれですか。機密費とかでなんとかするんですか。」
    「よくそんなもん知っとるな。」
    「勉強しましたよ。警察の仕組みとか。」

    富樫は肩をすくめる。

    「すいませんでした。」
    「!?」

    椎名は唐突に富樫に謝った。

    「今の今まで富樫さんを騙していました。」
    「…。」
    「あなたには本当にお世話になりました。なので、どこかの段階でちゃんと謝らなければならないと思っていました。」

    富樫は大きくため息をついた。

    「いや…お前さんのツヴァイスタンでの話を聞いとるから、然もありなんって感じや。」

    軽く息をつい居た椎名は富樫から視線を逸らした。

    「薄々感じとったことや。けどそれが決定的やって分かったときは正直、なんちゅうか…。このとしの爺にしては、けっこうショックやった。」
    「…。」
    「女子力高いやろ。わし。」
    「女子力?」

    椎名はきょとんとした顔になった。

    「知らんがか?女子力。」
    「あ…えぇ…。」
    「お前さんの知識も結構偏っとるな。もう少し広く浅く知識は入れておいた方が良いぞ。」

    富樫はその大きな手で椎名の背中を軽く叩いた。
    彼の手が椎名に触れたとき富樫は気がついた。ぱっと見では分からない華奢な感じを受ける彼だったが、触れると筋肉質な体躯であることを瞬時に感じさせるものがあった。
    いや、触った感じがそうだというだけではない。言葉に言い表せない椎名の肉体の、精神の強靱さが手のひらを通して伝わったのである。
    逞しさと同時に、とげとげしいまでの殺気のようなものだ。
    それは富樫にそこはかとない恐れのようなものを感じさせた。
    富樫は咄嗟に椎名の背から手を離した。

    「確かに、自分の知識は偏っています。」
    「…何か思い当たる節でも?」
    「つい三日前のことです。片倉京子さんの仕事を請け負った際に、あの人会社を通さずに自腹で自分にその分の代金を支払っちゃいまして、返金することになったんです。」

    椎名と片倉京子に妙な金の流れがあると言うことは、富樫も聞いていた。なるほどそういうことだったのかと彼はここで改めて理解した。

    「そこであの人、妙なこと言うんです。手数料引かずにお金返してくれって。」
    「手数料引かずに?」
    「はい。5万円を振り込む場合は5万円+手数料になる。これが手数料を引かない振込らしいですね。で、手数料を引いて振り込む場合は5万円から振込手数料分を差し引いた金額を振り込む。これ、日本の商習慣みたいなやつらしいですね。」
    「え?そうなん?」
    「え?富樫さんも知りませんでした?」
    「あ…はい…。」

    この富樫の反応に、椎名は少し得意げな表情を見せた。

    「そうなんや…そういう支払い方法があるんや…。」

    それならことあるごとに手数料を引いての振込にしておけば、人生においてどれだけの説くが自分にもたらされただろうか。このようなゲスな思いが一瞬、富樫の脳裏をよぎったのを椎名は見逃さなかった。

    「富樫さん。商習慣上の話ですよ。一般消費者はこのかぎりではありません。なので富樫さんには何のご縁もないルールです。」

    それにこの習慣も現在は廃れていると椎名は付け足した。

    「自分のこの国の情報は私が十八の段階で基本的に止まっています。よく考えたらそれからなんですよね。社会のことが分かり始めるのは。ですが、自分は社会のことを知りはじめる段階でにツヴァイスタンです。あの国の体制が本当の社会の形だと思っていました。そんな自分にとって日本の様々な社会常識を修得するのはかなり難しかったです。」

    椎名はため息をつく。

    「長かった…。」

    その場に沈黙が流れた。通信機器とそれを操作する通信員の話し声だけがこの車内に響く。椎名と富樫の側には機動隊員が3名。腕を組んで目を瞑って座っている。かなりの無言の時間だった。

    「椎名。」

    沈黙を破ったのは富樫だった。
    椎名はうつむき加減の富樫を見た。

    「お前さん。はなからこのテロ計画を潰そうとしとったんやろう。」

    富樫はそのまま動かない。椎名もまた固まっている。

    「ツヴァイスタンから命からがら逃げおおせてきたように振る舞い、しかるべき年月を経て、ツヴァイスタンの密命を成就せしめようとこれまた振る舞ってきた。その間、お前さんは日本に対してもツヴァイスタンに対しても欺き続けた。」
    「…。」
    「すべては今日のこのテロを自分の手で潰すため。」
    「…。」
    「ツヴァイスタン当局に打撃を与えるため。」
    「…。」
    「そうなんじゃないんか?」

    椎名は依然として動かない。顔を上げた富樫の目を直視している。

    「返事はいらんよ。自分はそう踏んどる。それだけや。」
    「…。」
    「孤独やな。」
    「…。」

    椎名は富樫から顔を背けた。

    「お前さんの復讐心をそこまでのものに仕立て上げたもの。ワシはそれに関心がある。」
    「アナスタシア。」
    「アナスタシア?」

    椎名の発した女性名詞を復唱するかしないかのタイミングで、富樫の額にナイフが突き立てられた。
    その場にいた機動隊員による犯行だった。
    彼は別のナイフを取り出すとそれを椎名に投げ渡した。ナイフを手にした椎名は彼と一緒にその場にいる機動隊員全員を瞬時に斬り殺した。

    「クリア。」

    通信員のひとりが返り血を浴びた様子でふたりに合流した。
    椎名は富樫の額に刺さっていたナイフを引き抜いた。

    「少佐。この男は何者ですか。」
    「俺を365日24時間監視していた男だ。」

    椎名は血塗られたナイフをそこにあった布で拭きながら応えた。

    「話を聞いていると、かなり鋭い観察眼を持っているようでしたね。」
    「いい加減俺の本当の立場に気づかれそうだったので、ここに引っ張り出した。」

    機動隊員の彼は黙って頷いた。

    「富樫は通称マサだ。声色の真似はできるな。」
    「これでどうでしょう。」

    機動隊員は富樫の声真似をした。

    「上出来だ。」

    とりあえずこの場に倒れる者達の所持品などを検めておくように椎名は機動隊員と通信員に指示を出した。
    23 August 2024, 7:00 pm
  • 14 minutes 2 seconds
    189.2 第178話【後編】
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    金沢駅の改札口前に大きなホワイトボードが設置された。
    そこには「この先大雨の予報のため、本日の運行を中止します」と達筆で書かれている。
    確かにまとまった雨が降り出した。しかし昨日の大雨と比べてたいしたことは無い。携帯の天気予報アプリで雨雲レーダーを見ても、そこまでの降雨量は予想されていない。なのに運行中止の案内だ。
    駅側の説明によると、昨日の大雨によって緩んだ地盤が、今日のこの雨によって崩壊した箇所が数カ所発生したようだ。それにより架線が破壊され運行ができない状況になっている。復旧のめどは立っていない。したがって本日の運行は中止とするらしい。
    理由が理由だ。ということで金沢駅から代替手段であるバス、タクシーといった交通手段に切り替える人たちが潮が引くように改札口前のコンコースから人が捌けだした。

    「なかなか手慣れた情報操作だな。見ろ。混乱とは無縁だ。」
    挺熟练的信息操作啊。看吧,没有一点混乱。
    「いやいや、これぞ日本人の民度だ。我が国では考えられん。秩序立った行動だ。日本という場所と日本人という生き物だけできる芸当さ。」
    不不不,这就是日本人的素质。咱们国家是想象不到的。这是只有日本这个地方和日本这种人才能做到的奇迹。
    「よし。ひとつかましてみよう。」
    好。咱们搞一搞。
    「いいだろう。」
    行。

    コンコースからバス停に移動する彼らのひとりが電話をかけた。

    「やれ。」动手吧。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    「ちょっとあんた!どうしてくれるのよ!」喂!你到底怎么办!

    ツアーガイドらしき女性がツアー客を先導するための旗を肩に掲げて、鬼のような形相で職員をがなり立てていた。
    聞けば彼女らの団体は本日、金沢観光の後、隣県である福井県へ移動。そこで在日中国人との親睦を図る式典に参加する予定だったそうだ。この式典には党幹部も複数人出席する予定であり、遅刻は許されない。現在時刻は16時半。式典は18時からであり、今から代替の観光バスを手配するのも難しいようで、何か変わりの方法を支給手当てせよとのことである。
    それは鉄道を運行する我々がやることではない。私たちは乗客の安全を第一に考えた結果、運行中止の判断をとった。そもそもそういったリスク管理をすることが、旅行会社の仕事であろう。駅側はそう突っぱねた。

    「なんだ!お前達日本人はここでもわたしたちを差別するのか!」什么!你们日本人就是在这里歧视我们!

    ガイドは中国語で職員を罵った。
    すると後ろに控えていた、20名程度のツアー客が一斉に怒号を上げた。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    交番内で電話を取っていた警部補が、それを切るなり困惑顔で相馬らを見た。

    「コンコースで中国人観光客が暴れています。突然の運行中止とはどういうことだ。すぐに代替手段を用意せよと。」

    その場の全員が一斉にため息をついた。

    「駅には中国語を話せる人間がいるそうですが、如何せん相手があまりにも感情的になっていて、抑えが効かないようです。」

    その場の全員が相馬を見た。

    古田「相馬。お前さん、中国語は?」
    相馬「いや無理です。」

    二人のやりとりを横目に児玉は立ち上がった。

    児玉「相馬。機動隊員を10名程度すぐに応援に寄こしてくれ。」
    相馬「何するんですか。」
    児玉「中国人には中国人らしく対応する。」

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    「いい?党の幹部も出席するのよ!あなたたちこの意味がおわかり!?」
    听好了?党领导也要出席!你们明白这是什么意思吗!?

    発狂する彼女の方をポンポンと叩くものがあった。児玉である。

    「静かにしなさい。」
    安静。
    「あんた誰よ。」
    你是谁?
    「人のことを聞く前には自分のことを名乗るのが礼儀だろう。」
    问别人之前,先介绍自己是礼貌。
    「何よ偉そうに!」
    别那么嚣张!
    「おいおい。あんた本国でもこんなことする?」
    哎哎,你在自己国家也这么干?

    こう言うと、児玉の後ろに屈強な機動隊員が10名ずらりと一列横隊で並んだ。

    「中国じゃあ公共交通機関が予定通りに動かないってのは日常茶飯事だ。それを日本じゃ受け入れられないって暴れるってのはどういう了見ですか?」
    在中国,公共交通工具不按时运作是日常。你们在日本暴动是怎么回事?
    「何言ってるの!私たちはレセプションに呼ばれてるの!」
    你在说什么!我们被邀请参加接待会!
    「誰の?教えてよ。」
    谁的?告诉我。
    「あんたに教える筋合いはないわ!」
    没必要告诉你!
    「その人に確認取るから。こんな人が金沢駅で暴れてて困っているんですが、どう責任とってくれるんですかって。」
    我要确认。这些人在金泽站闹事,怎么负责任?
    「責任って何よ。」
    什么责任?
    「言うこと聞かないでしょう。あなた。話し合いが通用しない人は署まで同行いただくしかないんですが。」
    你不听话吧。跟你说不通的人只能带去派出所。
    「なに!?あなた私を脅す気!?」
    你威胁我!?
    「脅していません。法に則っているだけです。」
    没有威胁你,只是依法行事。
    「あなたこそ何者!」
    你到底是谁!

    またも発狂しだした彼女の耳元で児玉は囁いた。

    「王志強は息災か。」
    王志强还好吗?
    「…。」
    「いざとなれば全てをバラす。」
    要是必要,我会把一切都揭露
    「な…何のことかしら…。」
    你…你说什么…。
    「お前らの動きを全てツヴァイスタン側にバラすって言ってるんだ。」
    我会把你们的一切行动透露给Zweistand。
    「…。」
    「全てのはじまりの前に…な。」
    在一切开始之前。

    女は黙った。ツアー客も彼女の表情を見て事を悟ったらしい。

    「わたしも昔、北京に居たことがありましてね。まぁこの日本という自由主義の国でして、めったなことで拘束はされませんから、ご安心ください。」
    我以前也在北京呆过。这是个自由主义的日本,不会随便拘留你们的,放心吧。
    「…その後ろの人たちは。」
    …你身后的人呢。

    彼女は児玉の後ろに立つ機動隊員を指す。

    「ひと昔前の警察と思わない方が良いですよ。それだけは言っておきます。」
    别把他们当成以前的警察。我只能告诉你这些。

    くるりときびすを返した児玉は振り返って付け足した。

    「お前らのためを思って言っている。」
    这是为你们好才说的。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    「そうか。やはり影龍特務隊だったか。」
    「はい。釘を刺しておきました。」

    児玉は電話をかけていた。

    「反応はどうだ。」

    電話の相手は陸上総隊中央情報隊特務機関長の小寺三佐である。

    「分かりませんが、これで向こうも我々自衛隊特務の存在を認識せざるを得ないでしょう。」
    「とにかくあいつらは利を得ることだけを考えて行動しているはず。」
    「奴らの利とはなんでしょう。」
    「そうだな…。」

    少し間があった。

    「秘密警察の流れを汲むウ・ダバと人民軍の流れを汲むアルミヤプラボスディアは犬猿の仲だ。ヤドルチェンコとベネシュも同じ。しかしそのどちらもロシアの影響下にある。そこに解放軍の影龍特務隊が絡む。」
    「はい。」
    「今時テロを巡る事態は流動的だ。このテロ計画は既に公安特課も対応をしているし、自衛隊も備えをしている。それについては影龍特務隊はよく分かっている。」
    「はい。」
    「わたしが影龍特務隊なら積極的に絡まず、事態をつぶさに観察して、自衛隊や警察の動きを分析するに徹するか…。」
    「徹するか?」
    「何らかの中国人被害者を作り出して、我が国に外交的プレッシャーをかける材料を作り出すか。」
    「なるほど。」
    「何れにせよ、今回のテロに関しては影龍特務隊の動きは偵察に留まることだろうと思料する。」
    「今回のツアーガイドの扇動は威力偵察と。」
    「そんなところか。」
    「今すぐどうこうなりたくないでしょうからね。」
    「ああ。計画にないことはやりたがらない。偶発的なものを最も嫌う生き物でもあるからな。共産党は。」

    ここで自衛隊の動きを分析されるのは容認せざるを得ない。目の前に危機が迫っているのだから。肝心なのは中国人被害者を出させないことだ。これを起こすと後々厄介なことになる。とりあえずその手の人物を現場から今すぐ排除せよ。そう小寺は児玉に命を下した。

    「ところでアルミヤプラボスディアについてはいかがでしょうか。」
    「不明だ。事ここに至っては、この金沢駅で迎撃する事に決した。」
    「と言うことは。」
    「既に配備は済んだ。」

    児玉はゴクリと喉を鳴らした。

    「機関長にひとつ報告があります。」
    「なんだ。」
    「仁熊会という民兵組織が我々と共闘してくれます。」
    「民兵組織?」
    「はい。」
    「…まぁそう言っても差し支えないか。」

    この小寺の反応に児玉は彼の意図を察した。

    「ご存じでしたか。」
    「あぁ。知っている。」
    「自分は知りませんでした。あの卯辰兄弟が潜入しているとは…。」
    「奴らは神谷が若頭となるのと同時期に仁熊会に送り込まれた我々自衛隊のスタッフだ。」
    「それは一体いつの話なんですか。」
    「朝倉事件のすぐ後だ。仁川征爾が日本に逃げ帰ってくる前のことだ。」

    そんな以前から自衛隊特務は公安特課と連携して、ツヴァイスタンへの備えをしていたというのか。児玉は素直に驚いた。

    「我が国の安全保障能力強化への取り組みは予算が付く直前から水面下で始まっていた。それをあいつら、つまりツヴァイスタンは察知し始めていた。だから朝倉事件なんてもんが起きたんだ。」
    「そんな前から…。」
    「いいやその前からだ。」

    話すと長くなる。今は事の沿革を語る時ではない。そう小寺は話を切った。

    「卯辰兄弟はアフガンでの傭兵経験のある猛者だ。アルミヤプラボスディアもあの二人の姿を見たらきっと驚くさ。」
    「況んや影龍特務隊においてをや、ですね。」
    19 July 2024, 9:00 pm
  • 11 minutes 34 seconds
    189.1 第178話【前編】
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    「ご遺族には私から連絡する。当面デスクは三波君のことは秘して、平静を装ってくれ。」
    「…。」

    加賀と正対する黒田はただひたすらに床を見つめて直立していた。前髪が黒田の顔を隠すため、加賀の目では彼がどういった表情をしているかは分からない。

    「デスク。」
    「…わかりました。」

    社長室から出た黒田は二歩ほど歩いた。しかしどうも足下がおぼつかない。壁により掛かるとへなへなと自分の身を折りたたむようにそのままそこに座り込んでしまった。

    「嘘だろ…。」

    声にならない声を出す。自分にも聞こえない。
    彼は天を仰いだ。
    熱いものが目から頬、そして顎を伝う。

    バイブ音

    こんな時に何の電話だというのだ。携帯を手に取った黒田はそれを床にたたきつけてやろうと思った。しかし、画面に表示される名前を見て、顔を手で拭った彼は慌ててそれに出ることにした。

    「京子…大丈夫か。」
    「デスク…。」
    「…社長から聞いた。お前、いまどこだ。」
    「警察署にいます。」
    「そうか…。」
    「デスク、わたし、何もできなかった…。」

    この京子の言葉に黒田は何の返事もできなかった。

    「とにかく行かなきゃって思って、バイクで必死になって向かったんだけど…遅かった…。」
    「京子…。」
    「そこに沢山の死体があった…。」
    「おい…。」
    「三波さんはうつ伏せだった…。」
    「おいやめろ。」
    「頭から血を出して…。」
    「やめろー!」

    黒田は絶叫していた。この声に加賀は社長室から飛び出してきた。

    「落ち着け京子。しっかりしろ!」
    「だって…だって…。」

    京子は話せる状況にない。黒田は思い切って彼女からの電話を切った。

    「それでいい。」

    加賀は黒田の肩にそっと手を当てた。

    「今日はもう帰るんだ、デスク。君まで壊れたら、このちゃんフリは立ちゆかなくなる。」
    「…。」

    明日は分からない。しかし今日一日くらいなら経験の浅い連中でも報道部を回せるだろう。最悪別部署から応援を持ってきても良い。やはり今日は帰って休め。そう加賀は黒田に言った。

    「…いや、やります。」
    「無理するな。」
    「…安井さんも三波も居なくなって、ここで京子も離脱となるとちゃんフリは保ちません。自分が踏ん張ります。」

    床から身を起こした黒田の目を加賀は黙って見つめた。

    「京子のケアは警察でやってもらいます。自分はこのネタをモノにします。」
    「モノにするって?」
    「デスクは他部署の誰かにお願いします。自分は記者として動きます。」

    加賀はあきれ顔で黒田に一瞥をくれた。

    「わかった。」

    加賀に一礼した黒田は早足でその場から立ち去った。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    「おい。相馬の奴どこに行った。」

    周辺の巡回から帰ってきた吉川は傘を畳み、身体についた雨粒を手で払いながら児玉に尋ねた。

    「あぁ…少しだけひとりにしてくれってさ。」
    「あん?」

    吉川の片眉がつり上がった。

    「世話になった人がさっき亡くなったんや。」

    古田がこう言うと、吉川の表情が曇った。

    「しかも事情が事情ときたもんや。」

    古田は三波が死んだ経緯を吉川に説明した。

    吉川「なるほど…話を聞くかぎり、その三波を殺したのは、その死んでいると思われたウ・ダバのなかのひとりか…。」
    古田「ご明察。んで朝戸はいよいよ今度はウ・ダバに追われる身になったっちゅうわけや。」
    児玉「この金沢駅に出所不明の車両が進入、それとタイミングを一にして朝戸が起爆スイッチを押してドカンの算段が、ここで変更になったってわけだ。」
    吉川「どう変更になった。」
    古田「特高に投降した、今回の司令塔、椎名が朝戸の代わりをすることになった。椎名は30分後の17時に金沢駅周辺に入る。」
    吉川「ウ・ダバ側には悟られていないのか。」
    古田「おそらく。」
    児玉「警察側のシナリオはこうだ。予定時刻の18時には椎名はこの鼓門の下にやってくる。」

    児玉は目の前にそびえ立つ鼓門の基礎部分を指した。

    児玉「朝戸の代役が椎名になると言うことは、ヤドルチェンコも了承済みだ。椎名の金沢駅来訪を確認したヤドルチェンコは、ウ・ダバに車を突っ込ませる指示を出し、タイミングを見計らって椎名は爆発させる。」
    古田「その爆発を合図に、潜伏させていたウ・ダバがこの辺りの人間を無差別に殺す。ほやけどこの辺りの人間はそのときには警察関係者しかおらん状況になっとる。こちらが返り討ちにする。」

    吉川は手にしていた缶コーヒーの蓋を開けた。

    吉川「で、警察で対応できるのか。相手は歴戦のテロリスト集団だぞ。」

    児玉は吉川と同じ疑いの眼で古田を見る。

    古田「それは問題ない。あんたら二人もおるんやし。」
    吉川「俺らだけじゃ何もできん。」
    古田「卯辰兄弟がおる。仁熊会もおるぞ。」

    吉川と児玉は思わず口をつぐんだ。

    ドアが閉まる音

    席を外していた相馬が戻ってきた。彼の身体もまた雨に濡れていた。

    相馬「消えました。」
    児玉「何のことだい。」
    相馬「さっきまでたくさん居た中華系の人間が、駅から姿を消しました。」

    相馬が言うには観光客だけではなく、それらしい中華系の人間が老若男女一切が駅構内から居なくなったと言うのである。まるで潮が引くように。

    古田「そういうこともある。そもそもこの金沢駅っちゅう限られた空間につねに外国人が数名おるっちゅう状況の方が珍しい。さっきまでが多すぎたんや。」
    相馬「そうですかね…」

    相馬は先ほど偶然目にした例の殺気を帯びた中国人の件を口にした。

    相馬「アレがなかったら、自然現象として割り切れるんですが。」
    児玉「そうだな…。」

    相馬らのやりとりを横目に、吉川は金沢駅から消えた中華系の状況報告を特務本部へ行っている。

    古田「お前さんが懸念するように、これが意図的なもんやったとすると、どういった展開が考えられるかね。」

    古田は相馬に尋ねた。

    相馬「お膳立てかと。」
    古田「お膳立て?」
    相馬「はい。」
    古田「詳しく。」
    相馬「いや、そんなにちゃんとしたことは言えないんですが、なんとなく感じるんです。ほら、よくあるでしょう。見せ物とかでとざいとーざいとか言って賑やかな前座があって、さあ本日のメインイベントですってなると、シーンってするでしょう。あれの雰囲気に似てるなって。」
    児玉「嵐の前の静けさ、か。」
    相馬「そう。それです。」

    一同が黙した。

    相馬「ところで、自衛隊はアルミヤプラボスディアの行方を捕捉したんですか。」

    これには無線連絡を追えた吉川が頭を振って応えた。

    相馬「ということはアルミヤの出方も未だ判然とせずということですか。」
    吉川「そういうことだ。」

    全てが良くわからない。まさに霧によって視界が閉ざされたような状況だ。そんな中でテロが予定されて居いるこの金沢駅から、ウ・ダバ、アルミヤプラボスディア、影龍特務隊と疑われる中国人などの姿が忽然と消えた。テロの舞台となるこの金沢駅の視界だけがさっと開けたような状況だ。
    ただし視界が開けたのは舞台の状況だけ。気象状況は雨である。

    古田「今は16時半。やおらあすこの商業ビルの封鎖が始まる。」

    古田は岩のような人差し指で隣接の商業ビルを指す。

    古田「時を同じくして、民間人の金沢駅構内からの退去も開始。異変に相手方は気づく。」
    児玉「その異変を感じたときに奴らはどう動くか。」
    吉川「そうこう言ってる間にどうやら始まったようだぞ。」

    交番の四人は金沢駅入り口に視線を移した。
    19 July 2024, 8:00 pm
  • 17 minutes 48 seconds
    188.2 第177話【後編】
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    静かに開かれたそこから岡田が姿を現した。
    片倉と富樫は彼の姿を見てこう思った。

    疲れ切っている。

    ここ数日、まとまった休息をとっていない。それは片倉や岡田、百目鬼と言った上層部の人間だけがそうだというわけでなく、富樫のような現場の人間も同じだ。皆に余裕がない。だから片倉も富樫もここで岡田を気遣うような言葉を発する余裕もなかった。

    部屋に入ってきた岡田はスピーカーから流れるツヴァイスタン語の会話を背景に片倉に語りかけた。

    「椎名の様子はどうですか。」
    「案外落ち着いとる。」

    こう言って片倉は画面に映る椎名をしゃくる。
    画面の椎名は携帯電話で話していた。

    ーУблюдок!

    「相手はヤドルチェンコですか。」
    「ああ。」
    「荒れてますね。」
    「朝戸なんて素人に、アジトを壊滅させられたんやしキレるのもしゃあないやろ。」

    俺はツヴァイスタン語なんてわからんがなと片倉は付け加えた。

    「朝戸は金沢駅に来ます。」

    これには片倉は無言だった。

    「自分の勘です。朝戸は金沢駅に必ず来ます。」

    同じ事を岡田は繰り返して言った。

    「俺もそんな気がする…。」

    うつむき加減に片倉はぼそりと呟いた。

    椎名は朝戸の代わりに連中に合図を送る役として金沢駅に行く。合図は爆発だ。椎名はヤドルチェンコから爆発の起爆装置を渡される手はずになっている。そう片倉は岡田に説明した。

    「爆発物は金沢駅から発見されていませんが。」
    「車を突っ込ませる。その車自体がマルバクや。」

    こう言って片倉はうつむき加減のまま椎名が映る画面を見る。

    「ウ・ダバ、マルバク、椎名。そこに朝戸がふらり現れるとなると…。」
    「混乱を来す可能性が高い。」

    岡田と富樫はゴクリと喉を鳴らした。

    「片倉班長。」

    岡田が片倉の名を呼んだ。

    「なんや。」
    「これも自分の勘なんですが…。」

    片倉は片手を挙げて岡田の言葉を制した。

    「言うな。」
    「しかし…。」
    「俺もそうじゃないかと踏んどる。他ならぬマサさんもそうや。」

    画面に映し出される椎名が電話を終えた。彼は手にしていた携帯電話をそっと机の上に置く。そしてふうっと息をついてカメラレンズを見つめた。

    「ヤドルチェンコ、なんやって?」
    「テロは中止にはなりません。決行です。」
    「そうか…なんか揉めとるふうやったけど。」
    「はい。報酬を倍にせよと。」

    貴重な労働力を失ったからには、その損害賠償を請求する。ビジネスマンとして当然の要求のため、椎名はそれにYesと応えたと言った。

    「朝戸について何か言っとったか。」
    「はい。クソ野郎と吐き捨ててました。」
    「だろうな。」
    「こうなったからには、ヤドルチェンコは朝戸を見つけ次第殺します。そのあたりは警察としてもご理解ください。」

    それについて「はい分かりました」とは立場上言えない。そう片倉はあらためて椎名に答えた。

    「ウ・ダバの制御は椎名、お前さんはできない。そういうことやな。」
    「その通りです。」
    「もしもこういう状況になったら、お前さんどうする?」
    「シミュレーションですか。」
    「ほうや。」

    予定時刻は18時。あと2時間だ。
    この18時時点で、ウ・ダバは金沢駅周辺に集結し、合図を待っている。そこに朝戸の代役である椎名が現れる。爆発物を積んだ車両がどこからか駅構内に侵入、それを目視した椎名は起爆スイッチを押す。すると車両は爆発炎上。これを合図にどこからともなくウ・ダバが一斉に駅構内に突入。無差別殺傷を試みる。しかし構内に居る一般人はすべて武装した警察官であり、ウ・ダバは逆襲に遭う。駅構内や商業ビルから包囲するように音楽堂へ圧迫されたウ・ダバは多数の死傷者を出し、最終的には制圧される。
    これが椎名と描いたシナリオだ。
    だが、このどこかのタイミングで朝戸が金沢駅に単騎突入を敢行した場合、どのような変化が生じるだろうか。結局のところ多勢に無勢。人ひとりが事態に与える影響など無いに等しく、仮にあったとしても極小のものであると判断するか。
    片倉は椎名の見解を尋ねた。

    「朝戸が仮に金沢駅に来たとしても、侵入を防げばそれは変数たり得ません。」
    「いや、だから何らかの形であいつが侵入した場合を想定してや。」
    「あり得ない。」
    「なんでそう言える。」
    「厳重な警備体制なんですよ。民間人は基本的に避難完了してるんです。現場に残るのは民間人に扮した武装警察です。そんなところに部外者の朝戸がふらり現れることができるわけないでしょう。」

    椎名の見解は合理的だ。
    18時の金沢駅には関係者しかいない状況を作り出している。予定だが。その前提をひっくり返す状況を想定するとは、どういうことだ。ここにきてまさかの方針の変更か。椎名は片倉に不審を抱くような表情を見せた。

    「いや、あらゆる場合を想定しておかねばならない。万が一と言うこともある。」
    「万全を期すと仰りたいので?」
    「そうだ。」

    椎名は肩をすくめた。

    「取るに足りません。朝戸なんぞ。状況に変化はないでしょう。」
    「武装してるぞ。奴は。」
    「武装しているでしょうが所詮素人です。今回のテロで奴の役割は、その合図を出すだけの存在。車両を爆破さえさせれば、それで用済みでしたから。」
    「用済み?」
    「はい。」
    「なに、と言うことは。」
    「ええ、その時点で処分です。」
    「…。」

    そんな捨て駒のような役割しか与えられない朝戸という男を、なぜ今の今まで、こうも温存していたのだ。今度は片倉が椎名に不審を抱いたが、それを先回りして彼は言葉を続けた。

    「なぜそんな捨て駒を今まで温存していたか。なぜ彼には手厚い対応をしてきたか。それも奴が鍋島能力の実験体だったからです。」
    「朝戸も鍋島能力を?」

    椎名は首を振る。

    「空閑は不完全ながらも瞬間催眠をつかうことができた。一方朝戸はその逆。」
    「逆とは…。」
    「催眠を極端に受容しやすい体質になった。」
    「それはどういうことや。」
    「我々が彼を意のままに操ることができた。つまり完璧な捨て駒として利用することができるようになった。」

    片倉は息をのんだ。それはこの場の富樫と岡田もそうだった。

    「朝戸は妹が警察幹部の息子によって轢き殺されたと思い、その人物を必ず殺すと心に誓いました。」

    そう誘導したのは他でもない光定公信であり、彼は朝戸とはじめてコンタクトをとったときから、微量ながらも鍋島能力の実験を彼に施していた。少しずつ少しずつ。水を一滴ずつ落とすように、本人には分からないように。その甲斐あって朝戸は光定との距離をどんどん縮めた。気づけば端から見れば二人は親友であるかのような関係性を構築していた。この二人の親友関係は結局のところ、光定と朝戸の主従関係でもあった。ただ光定自身はこれを主従とは考えていないようで、あくまでも朝戸を自身の作品であると評価しており、朝戸に対する対応はまさにそれであった。
    ここが彼がマッドサイエンティストと呼ばれる所以でもある。この朝戸と光定の関係は空閑の管理の下、見事に制御されていた訳だが、その管理人が退場することになり、朝戸の制御ができなくなったと言うのである。

    「しかしその完璧な捨て駒がここに来て機能しなくなった。原因は光定の死亡と空閑の退場ですが、もうひとつ理由があります。」
    「なんやそれは。」
    「末期なんです。奴の症状が。」

    鍋島能力の許容量は個体差がある。
    いままでの光定の実験はすべてが失敗だった。
    何の能力も会得できずに、実験体はそのまま社会へ放流された。社会へ放流されたそのほとんどが、一定期間で死亡した。しかもそのすべてが自殺。しかし朝戸だけは光定の厳格な管理下にあったため、いままで命を落とすことがなかったと言う。

    「光定が死んだ今、朝戸は今までの実験体と同じで、自分を自分の手で始末する道を選ぶことでしょう。」

    しかし熨子山のウ・ダバを皆殺しにしたところから、自分の死までにできる限り多くの道連れを作ろうとしているのではないか。そう椎名は言った。

    「ただ今回標的になったのはウ・ダバ。アジトへの道中、無差別殺傷をしたような形跡はない。逃亡中の現在もそのような犯行があったとの通報もない。したがって朝戸の標的はウ・ダバのような自分と関係がある人間となるのではないでしょうか。」
    「となると。」
    「金沢駅に来ると思います。」

    やはり椎名もそう踏んでいた。

    「テロの現場である金沢駅。そこに来れば自分の身内ばっかりやもんな…。」
    「はい。ですが先ほども言ったとおり、結局のところ朝戸は武器を持ったただの素人です。金沢駅の警備体制は厳重です。公安特課の目をかいくぐるなんて素人の奴にできるはずがない。万が一金沢駅に入り込んだとしても、見つけ次第排除すれば良い。至極簡単な話です。」

    そこまで読んでの朝戸への特別対策不要論だったのか。
    この男、いったい何手先まで読むことができるのだ。

    「我々警察が血眼にならなくても、ヤドルチェンコがエネルギーをそこに割くでしょう。となればテロ自体のエネルギーも幾分か削ぐことができるのではないでしょうか。」

    そもそも熨子山の連中は全滅であり、ウ・ダバの戦力は物理的に削られている。結果として朝戸の暴走は我々にとって利をもたらしている。そう椎名は片倉に自分の見解を述べた。
    非がない論だ。完璧だ。

    だが片倉は気づいていた。椎名は肝心なことに事に答えていないことを。

    片倉は椎名があるタイミングでテロに参加したとき、事態はどう推移するか。それを聞いていたのだ。
    だが椎名はそれには直接答えず、朝戸と光定の鍋島能力を介した関係など新しい情報を織り交ぜた論を展開してきた。自分が初めて知る情報を前にして、片倉のみならず、その場の岡田と富樫の注意も逸らすそのやり口。まさにアレに似ている。

    ー詐欺師。

    「椎名。わかった。お前の考えはもっともや。朝戸は忘れよう。」
    「さすが片倉さん。賢明です。」

    休憩しよう。そう片倉は言って会話を切った。

    「岡田。」
    「はい。」
    「朝戸は金沢駅に来る。結果的に来るんじゃない。椎名はあいつが今のこの状況になって朝戸が来ることを想定しとる。いままで起こった事で想定外なんて事はあいつには無い。朝戸が裏切ることも奴のシナリオにあったことや。」
    「やはり…。」
    「となれば、あいつは最後の最後で俺らを欺くはずや。」

    画面に映る椎名の目を岡田は見つめた。

    「マサさんも感じとるやろ。あいつには本当のことは何ひとつないって。」
    「ええ。詐欺師と同じニオイがします。」
    「それそれ。」

    片倉は人差し指を立てて空中を二度差した。

    「徹底的に欺いて、欺き続けて最後の最後で帳尻を合わせる。凄腕の詐欺師ですよ奴は。」
    「最後で帳尻合わせ…。」
    「はい。」
    「あいつの最後ってどういった状況を見据えとるんやろうか…。」

    一同が黙した。

    「それが分かれば、その終局を物理で壊せば良いわけですね。」

    真っ先に口を開いたのは岡田だった。
    そう。岡田の言うとおりだ。ゴールポストをずらせば良いのだ。シュートを打たせても、それがネットを揺らさなければ良い。

    「マサさん…。」

    片倉と岡田は富樫を見た。

    「え…ワシ…ですか…?」
    5 July 2024, 9:00 pm
  • 4 minutes 44 seconds
    188.1 第177話【前編】
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    コーヒーをすする音

    「完全に暴走し出した感じですかね。朝戸。」
    「…。」
    「片倉班長?」
    「あ、あぁ…。」

    再びコーヒーを啜った富樫は片倉を珍しいものを見るような目をして続ける。

    「案外、班長もセンチなんですな。」
    「…。」
    「センチになるのは明日で良いじゃないですか。」

    この言葉に片倉は一息つく。

    「…あぁそうや。無事明日になれば、そこで思いっきり怒って笑って泣けば良い。マサさんの言う通りや。」

    こういうと片倉は立ち上がった。

    「椎名はこの朝戸の行動については、本当に関知しとらん感じですね。」

    朝戸の裏切り行為は直ぐさま椎名に伝えられた。この報を受けた椎名の表情は変わることはなかった。ただ「そうですか」とひと言漏らし、朝戸の行方に関する情報は無いかと尋ねるだけ。それも無いと知ると「わかりました」と言ってヤドルチェンコと再び連絡をとっている。

    「椎名からは朝戸の損切り感が出とります。」
    「それすらも奴の演技ということはない…か。」

    画面に映る椎名から視線を逸らし、富樫は片倉を見る。

    「仮にこの朝戸の裏切りも椎名の計画の範疇やったとしても、私らには何の対策もできません。何れにせよ椎名は朝戸の排除をヤドルチェンコに依頼しとりますから、熨子山の件を椎名から聞いたヤドルチェンコは、ウ・ダバネットワークを駆使して朝戸をあぶり出すでしょう。」
    「警察がテロリストに対応を任せるか。」
    「朝戸が死ぬことになるかもしれませんが。」

    片倉は口をつぐんだ。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    「現場は警察が入っているから、ここはどうにもならない。熨子山の班は予定から外してくれ。」
    «Сейчас на месте происшествия работает полиция, поэтому здесь ничего не поделать. Исключите группу Ношияма из плана.»
    「賠償してくれるんだろうな。」
    «Ты возместишь убытки, правда?»
    「なに?」«Что?»
    「こっちはあんた側の不手際でみすみす損害を被ったんだ。賠償してもらわないといかんだろう。」
    «Мы понесли убытки из-за твоей ошибки. Ты должен возместить нам ущерб.»

    ヤドルチェンコの怒りの様相が電波を通じて伝わった。

    「勿論それはする。だが今はそんな状況ではない。」
    «Конечно, я это сделаю. Но сейчас не та ситуация.»
    「倍だ。」
    «Двойная оплата.»
    「何だと。」
    «Что?»
    「報酬を倍にしろ。合わない。」
    «Увеличь гонорар вдвое. Это не компенсирует наши потери.»
    「俺に手持ちはない。成功の暁には本国から引っ張る。それでどうだ。」
    «У меня нет наличных. Когда мы добьёмся успеха, я получу деньги из нашей страны. Как насчёт этого?»
    「絶対だな。」
    «Абсолютно точно?»
    「ああ絶対だ。」
    «Да, абсолютно точно.»
    「野郎、クソ野郎!」
    «Ублюдок!»

    あまりに酷い言葉のため、椎名は携帯を自分の耳から遠ざけた。

    「なんでこんな大事なミッションに素人をあてがったんだ!?ただの素人ならまだ良い。キチガイと来ている!」
    «Почему на такую важную миссию назначили новичка?! Если бы это был просто новичок, это было бы еще полбеды. Но это же сумасшедший!»
    「それは空閑の人選だ。」
    «Это был выбор Кугана.»
    「くそっ!」
    «Черт возьми!»

    しばし沈黙が流れた。

    「すなまい…。取り乱した…。仕事はやる。やり遂げる。だがその暁には倍の報酬をよこせ。」
    «Извини… я потерял самообладание… Я выполню работу. Но когда я справлюсь, ты удвоишь гонорар.»

    それは心配ない。おれが必ず対応する。椎名はヤドルチェンコを落ち着かせるようにゆっくりと低い声で発声した。

    バイブ音

    椎名の携帯にメッセージが届いた。

    「それが起爆スイッチになる。朝戸のやつは無効化済みだ。予定時刻に金沢駅に居てくれ。」
    «Это будет детонатор. Асато уже обезврежен. Будь на станции Канадзава в назначенное время.»
    「わかった。」
    «Понял.»
    5 July 2024, 8:00 pm
  • 8 minutes 39 seconds
    187.2 第176話【後編】
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    バイクのエンジンを切った京子はそれから飛び降りた。
    山小屋の入り口付近の状況は先ほどと何の変わりもない。あるのは今乗ってきたオフロードバイクだけだ。
    小屋の入り口の前に立った京子はそこから再び三波の名前を呼んだ。

    「三波さん。」

    返事がない。
    自分の声量が小さかったかもしれない。しかし大きな声を出すのは憚られる雰囲気をこの場は持っていた。京子は恐る恐る入り口扉を開いた。
    暗い。壁板から漏れる明かりが中を所々照らしているが、そのほとんどが見えない。京子は中に入るために一歩を踏み出した。
    すると踏み出した右足先に何かが当たった。瞬間、京子は触れてはいけないものに接触している感覚に襲われた。何かが見えるわけではない。足先の感覚だけでそのような感じを受けたのだ。彼女は咄嗟に右足を引っ込めた。

    「見るな。見るもんじゃない。」175

    三波が言っていたこの言葉を思い出した京子は思わず目を瞑った。

    「三波さん。大丈夫ですか。」

    目を瞑ったまま発されたこの言葉にも反応はなかった。
    相手を気遣うような言葉が京子の口から出たが、それは自分を奮い立たせるための方便に過ぎない。そのことを京子自身は理解していた。

    「三波さん。」

    言葉を発することで京子はなんとか踏みとどまった。
    京子はようやく目を開いた。右足に当たった何かをその目で確認しようと。
    男の手の甲が彼女の視界に映った。
    途端に腰から下の力が抜けた。
    彼女はその場に尻餅をついた。
    声が出ない。
    身体も言うことを利かない。
    ただ彼女の目だけは機能していた。
    彼女の目はそこにうつ伏せになるように倒れる三波の姿だけを映していた。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    「熨子駐在所より本部。」
    「はい本部。」

    無線には富樫が出た。

    「現場にて片倉京子を保護。」

    富樫と側に居る片倉は安堵の声を漏らしたが、続いて報告を受けて二人は戦慄することになる。

    「三波は心肺停止の状態です。」
    「なんやって…。」
    「頭部を撃たれた跡があります。」

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    数分前、駐在が現場に到着した。
    そのとき京子は小屋の外で腰を抜かすように座りこみ、放心状態だった。とりあえず彼女の安全を確認した駐在は小屋の中に入ろうとした。そのとき京子がぼそりと呟く声が聞こえた。

    「三波さんが…。」

    足を止めた駐在が三波がどうしたんだと聞く。すると京子は泣き出した。
    このとき駐在はマズい状況が発生していると理解した。彼は懐中電灯を手にして小屋の中に入った。
    入った刹那、小屋内の惨状に彼は足がすくんだ。
    入り口に頭を向けてうつ伏せになって倒れているひとりの男。彼の頭部は銃のようなもので撃ち抜かれている。それによってできたと思われる血液たまりもあった。
    続いて小屋内の懐中電灯で照らすと、先ず先ほどの遺体と別の仰向けの遺体と思われる男が一体。続いて壁に寄りかかる男、小屋奥でうつ伏せで倒れる男と確認できた。

    「お嬢さん!三波さんは!?」

    京子は力なく、あなたの足下に倒れているその人ですというような事を言った。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    「それで現場の安全は確保できとるんか。」

    富樫が駐在に呼びかける。

    「安全かどうかは分かりませんが、今のところ問題ありま…。」

    駐在の言葉が途切れた。

    「どうした。」

    待ってくださいと言った駐在は壁に寄りかかる男を見る。男の手元で目がとまった。
    拳銃を手にしている。
    駐在は恐る恐るその男に近寄った。

    「…息をしていない。」
    「おい。大丈夫か。聞こえるか。」

    あ、はいと駐在は応えた。

    「ひょっとしたら、通報時にはまだ息がある奴がおって、それに気づかずにここにおったら撃たれた感じかもしれません。」
    「三波のことか。」
    「あ、はい。」

    この駐在の推理のようなものを聞いて、富樫も片倉も状況が掴めたのか、お互いが同時に天を仰いだ。

    「生存者はおらんのやな。」
    「はい。全員死んでいます。」

    もうしばらくすれば応援がそこに到着する。それまで片倉京子の安全と現場の保全に努めるように。そう富樫は言って無線を切った。

    「片倉班長。」
    「なんや…。」
    「娘さんに声かけんでも良いんですか。」
    「…。」

    しばらく黙った片倉は、首を横に振って応えた。
    21 June 2024, 9:00 pm
  • 15 minutes 55 seconds
    187.1 第176話【前編】
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    「片倉班長。報告が。」

    神妙な面持ちで捜査員のひとりが片倉に耳打ちした。

    「先ほどまでここに居た捜査員が逃走しました。」
    「なにっ?」
    「署内で電話をする奴の姿を見た同僚警察官が声をかけると、ごにょごにょ言ってその場から走って逃げだしたというものです。」
    「簡単に説明してくれ。」

    片倉の代わりに椎名の対応をしていた捜査員が、署内で「合図を待て」とか「追って連絡する」と電話で話す姿を同僚警察官が見たので声をかけた。その同僚警察官は彼が公安特課、とりわけ現在の片倉の側に仕えていることを知っており、そんな彼が妙な電話をしているもんだと不審を抱いたのだ。
    電話の相手は誰かと尋ねると、彼は家族だと返した。しかし彼の家族は施設に入っている認知症の母親ひとりであり、その応えは明らかに嘘だった。それを指摘しようとしたところで、彼はその場から走り去ったというものである。

    「目薬の男ね…。」

    独り言を呟いた片倉は腕組みをして口をへの字にする。報告に来た捜査員は片倉の言葉の意味が分かりかねる様子だった。

    「あの…追いましょうか。」
    「いや、いい。」
    「は?」
    「放っておけ。今はそれどころじゃない。」
    「しかし…。」
    「手配だけはしておけ。今はそんなことに戦力を割くことはできん。」
    「報告してきた機動隊員が、できることなら自分が捜索したいと申し出ていますが。」
    「今はその機動隊員にひとりの欠けも許されん状況や。申し出は嬉しいが今は遠慮してくれ。」
    「わかりました。」
    「あと富樫さんをここに呼んでくれ。」

    捜査員の背中を見送った片倉は呟いた。

    「合図…。」

    「居るよ。ずっと居る。」
    「あぁいらっしゃったんですか。」
    「お前ひとりにさせるわけにはいかんやろ。何せウチの司令官なんやし。」174

    「このやりとりの後に、俺の隣に座っとった、目薬男が部屋から出ていった…。」

    空席になっている目薬男の席に片倉は座り直す。

    ドアが開く音

    「お呼びでしょうか。」
    「マサさん。あんたずうっと椎名のことを監視しとったんやよな。」
    「はい。」
    「ほやけどあいつは俺らに勘づかれんように外部と連絡を取りあっとった。」
    「はい。」
    「あいつの携帯とパソコン調べて、それについて何か新しいことは分かったか。」

    富樫は首を振った。

    「何の痕跡もありません。きっとこれら端末を使って空閑や光定、朝戸らと密に連絡を取っていたんでしょうが、それを示す決定的なもんをなにひとつ見つけられませんでした。」
    「そうか…。」

    片倉は目の前のモニターに映し出される椎名の姿を見たまま唇を噛んだ。

    「しかしそういった電子的通信情報の痕跡を消すようなことまであいつができるとは私は思いません。これにはかなりの専門的知識と技能が求められます。したがってその手の通信に関する痕跡の消去は、椎名以外の人間によってなされていたものと考えます。」
    「となると?」
    「ネットカフェです。」
    「爆発したあのネットカフェか。」

    富樫は頷く。

    「あのネットカフェっちゅうか、あの手のプライバシーが一定程度確保された空間で、なんらかの協力者と接触し、そういった端末の情報メンテナンスを受けていたものと。」
    「専門的な処置か。」
    「はい。先ほども申したとおり、奴のパソコンの使用経過を監視カメラで見る限り、椎名がそこまでの技能を有しているとは思えません。そんな奴が私の監視の目をかいくぐってあれら端末にその手の処置を施すのは能力的にそうですが、物理的に無理でしょう。」
    「あいつにはなんらかの人的協力者が常にいた。」
    「はい。自分はそう思います。我々の目をかいくぐる人的ネットワークを密かに構築。で、このネットワークに自分では手に負えない諸々をアウトソース。ネットワークの情報セキュリティは非常に強固で、ここから外部に漏れることはない。この組織力、統率力が椎名の恐るべき能力であると私は考えております。」
    「となると目薬もそのひとつか…。」
    「目薬?」
    「ああ。」

    富樫ははてという表情である。

    「マサさん。」
    「はい。」
    「あの男。」

    こういって片倉は顎をしゃくってモニターに映る椎名を指した。

    「いまもこの環境下で、そのネットワークを構築し運用しとる。」
    「え…。」

    富樫は絶句した。

    「奴の協力者はついさっきこの場から逃走した。」
    「なん…と…。」
    「やっぱり椎名の監視は俺じゃなくて、マサさん。あんたにお願いせないかんかったようや。」

    片倉の表情から後悔の色が見て取れた。

    「くそ…。嵌められた…。これがこいつの計算やったんや。」
    「班長…それはどういうことで?」

    ふうっと息をついた片倉は心を落ち着かせようと必死である。

    「いままで監視役一筋やったマサさんは、椎名の背信行為に傷ついた。んでそのやり場のない感情を端末の解析に全て注ぐ。椎名の監視のプロは自発的に監視対象から距離をとった。」

    傷ついたのは確かだが、その表現はいろいろ誤解をうむので訂正を依頼しようとした富樫だったが、片倉の真剣なまなざしを見て、言葉を飲み込んだ。

    「監視のプロを自分から遠ざけて、何かにつけて俺とか百目鬼理事官とコミュケーションを図ろうとする。そうすればその間の椎名の監視役は俺か百目鬼理事官になる。」
    「あ…。」
    「ほうや。あいつは俺らのような監視の素人を監視役として側に置くことに成功したってわけや。こうなりゃイージーモード。素人の目をかいくぐって協力者とコミュニケーションをとるなんて造作もないことや。」
    「私を遠ざけてわざと片倉班長と百目鬼理事官を引きつけたと…。」
    「そういうことよ。」

    富樫の背中が寒くなった。バケモノだ。モニターに映るこの椎名という男は間違いなくバケモノだ。長い警察官人生でも初めて感じる種類の恐怖感が彼を襲った。

    「椎名が日本に潜入しだして5年か。その間、マサさん。あんたは椎名の様子をずっと見てきた。」

    確かに見てきた。しかし今の状況を迎えることになったのは自分の監視能力が無能であったためだ。こう思うと別種の恐怖が彼を覆い尽くした。

    「その間、今日のこの時を迎えるまでの準備を奴は整えとったんやろうけど、おそらくマサさん。あんたがどうにも邪魔やったんやろうな。んであんたを自分の監視役から外させるようにこいつは仕向けた。」
    「考えすぎのような気もしますが…。」
    「そうだ。そうに違いない。いよいよ本番っていう時に、自分の手足を自由にするために枷となるあんたを別の方面に異動させた。すべて計画通りやよ。」

    現にいまのこの状況がこうだ。こう言って片倉は肩をすくめた。

    「バケモンですな。こいつは。」
    「ああバケモンや。」
    「一体、どんな訓練を受ければこうなるんですか。」
    「ツヴァイスタンの工作員がみんなこのクオリティやとしたら、もう世界はあいつらの意のままや。」
    「確かに。」
    「けど世界はそうじゃない。」
    「班長…何をおっしゃりたいので?」
    「なんか見えてきた気がする…。」

    ここで片倉の携帯が震えた。
    胸元からそれを取り出した彼は、そこに表示される名前を見てしばらく動きを止めた。

    ー京子?

    娘の京子が仕事中の片倉に電話をかけてくることは基本ない。その彼女からの電話。嫌な予感がした。

    「もしもし。」
    「お父さん。わたし。」
    「どうした。」
    「ウ・ダバのアジト見つけた。」
    「なに言ってんだ…京子。」
    「朝戸慶太がそこから逃げ出した。」
    「あさと…けいた…。」

    富樫は険しい表情でただならぬ様子の片倉の顔をのぞき込んだ。

    「京子…お前大丈夫なのか。」
    「大丈夫。私、いま三波さんと一緒にいる。二人とも無事よ。」
    「しかし京子、どうして…。」
    「話すと長くなるから。」

    京子のこの短いセリフは妙に説得力を持っていた。

    「…わかった。」

    片倉は詮索は後にすることにした。

    「アジトは熨子山の山小屋。熨子山連続殺人事件の現場の山小屋よ。」
    「熨子山!?」
    「その小屋の中のウ・ダバの連中、みんな死んでいる。多分朝戸に殺された。」
    「なんだって…。」
    「だから誰かをここに寄こして。至急。」

    携帯の送話口を片倉は手で抑えた。

    「マサさん。」
    「はい。」
    「緊急で熨子山の山小屋に人員を派遣してくれ。」
    「何名派遣しますか。」
    「とりあえず熨子駐在所の人間を派遣してくれ。おって応援を。」
    「了解。」

    富樫は部屋の無線機を使用して指令と連絡を取り始めた。

    「もしもし。いま指示を出した。」

    ありがとうと京子が返事をすると電話は切られそうになった。

    「待てっ。」
    「なに?」
    「先ずは安全確保や。お前はいまどこで何をしている。」
    「私はいま、山小屋から降りてしばらくのところに居る。」
    「三波は。」
    「三波さんは…。」
    「三波と代わってくれ。」
    「あの人はいま、小屋の中にいるの。小屋のあたりは電波が悪いから私が電話できるところまで移動してきたの。」
    「…。」
    「どうしたの。」
    「京子…。お前はすぐ近くの交番に行け。一番近くに熨子駐在所ってのがある。駐在さんがいまからそっちに向かうから、お前はその人と入れ違いで交番で待機してろ。」

    このセリフを横で聞いていた富樫は同じ事を指令と共有すると言うように、片倉にむかって頷いて応えた。

    「え、だって三波さんが。」
    「いいからお前ひとりでも行け。三波はこっちで保護する。」
    「でも。」
    「すぐに!今すぐだ!」
    「駄目よ!」
    「死ぬぞ!」

    この片倉の発した言葉に京子は黙るしかなかった。

    「いいか詳しい事情はよくわからんが、お前らふたりはテロリストのアジトに足を踏み入れたんや。そこのアジトの連中は全員死んどるんかもしれんが、あいつらの情報網を甘く見るな。拠点と連絡が付かんとなると必ず状況を確認するための行動に出る。そのために仲間の誰かがそこに急行するとなると、どうなるかお前わかるやろう。」
    「でも…それだと…。」
    「いま駐在がそこに向かっとる。三波の保護はそいつに任せるし、応援も北署から数名出す。京子。お前ひとりにできることは現状ない。これは間違いない。だからお前はそのまま駐在所までできる限り早く移動しろ。」
    「…。」
    「頼む。」
    「いま私バイクなの。駐在さんが山小屋に来るまで後どれくらいかかるの。」
    「15分。」
    「だったら私の方が早いわ。私が三波さん乗せて行く。」
    「京子!」

    ツーツー音

    回頭し、オフロードバイクを山小屋めがけて走り出させたその時。

    パンっと言う音

    「えっ…。」

    バイクを止めた京子の全身に鳥肌が立った。

    「さっきお前さんが聞いた破裂音は銃声だ。中の人間は全員撃ち殺されている。だから中に入るな。」175

    「全員撃ち殺されているって行ってたはず…。」

    「あいつらの情報網を甘く見るな。拠点と連絡が付かんとなると必ず状況を確認するための行動に出る。そのために仲間の誰かがそこに急行するとなると、どうなるかお前わかるやろう。」176

    「まさか、すぐ近くに別の拠点があるとか…。」

    「死ぬぞ!」176

    ゴクリと喉を鳴らした京子だったが、彼女はフルスロットルで山小屋に向かった。
    21 June 2024, 8:00 pm
  • 10 minutes 42 seconds
    186.2 第175話【後編】
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    「おかけになった電話は電波の届かないところにあるか、電源が切られているため…」

    「なんだよー。どこ行っちゃったのよ…。」

    電話を切った片倉京子はため息をついた。
    ここで待ってると言われた場所に戻ってきたのに、当の三波が居ない。
    まさか心変わりしてまた家に帰ったなんて事はあるまい。体力が回復したから先を急いだのだろう。どうせすぐに私に追いつかれるのだから。
    そう判断した京子は遊歩道を歩くのを止め、開けた車道の方に出た。こちらの方が舗装されている分、駆け足でもいける。彼女は三波への遅れを取り戻そうとペースを速めた。

    「あなたも聞こえた?」
    「はい。パンパンってなんだか乾いた音でした。」
    「パンパン?」
    「はい。」
    「違うわよ。もっと鳴っとったわ。」
    「もっと?」
    「そう。パン。パンパン。パン。って」
    「え?そんなに?」
    「ええ。」
    「それ何の音ですか?」
    「いやぁ何かしらねぇ。あんまり聞いたことない音だったから。」

    破裂音は京子の空耳ではなかった。しかし熨子山に住まう人間にとっても耳慣れない音であったのは確かだ。京子はくねくねとカーブが続く車道の際を早足で山頂に向かっていた。
    エンジン音が山頂方面から聞こえた。それはどんどんこちらに近づいてくる。エンジン音を聞くだけで随分荒い運転をしていることが分かる音だ。困った輩が居るもんだと京子は心の中で呟いた。
    やがてその車は姿を現した。アメリカ車のSUVだ。信じられないスピードでカーブを曲がったそれは、京子の横すれすれに坂を落ちるように下っていった。
    このまま崖に転落して、自爆してしまえば良いのに。そう京子は内心思った。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    あれから少し時間が経ったが、小屋の中から人の気配を感じない。朝戸がひとり慌てふためいて出て行ったきりだ。
    光定の言葉は本当であるならば、朝戸は今日、金沢駅でテロをする。明日や明後日の話ではない、今日だ。テロリスト朝戸がいわば潜伏していたアジトがここだとすれば、ここに奴の仲間のような者が居るはず。こんな危険な場所からはすぐにでも退散し、片倉さんに通報せねば。そう思う三波であったが、一方で妙な記憶にあるこの山小屋の中を今この目で確かめたいという欲求もそれと同様にあった。
    携帯電話の画面を見るも電波がない。
    伏せるように茂みに隠れていた三波だったが、いま彼はまさに山小屋の入り口扉の前にあった。
    耳を澄ますも物音一つ聞こえなかった。
    仮にここがテロリストのアジトだとして、例の破裂音が銃声だったとして、朝戸が逃げるようにここから出て行ったのだとして、この静寂。考えられる中の状況はひとつ。

    「全滅か…。」

    つばを飲み込むと、周囲の静寂に響き渡るのではないかと思えるほどの音量でそれは三波に聞こえた。
    入り口である引き戸に手をかけて、ゆっくりとそれを開く。
    ガタガタといかにも立て付けが悪い様子を表す音が鳴る。
    この時点で中の人間には気づかれる。しかし小屋の中に目立った反応はない。
    扉を開くと一畳程度のコンクリート床の玄関だった。小屋の中には明かりはなく、昼間のこの時間にもかかわらず、中はかなり暗い。ところどころ壁板の立て付けが緩んでいるところがあるせいか、そこから外の光が倉庫内を漏れ照らすも、それは室内の様子を把握するには絶望的に少ない光量であった。

    コツコツ足音

    壁をつたうように歩き出した三波はふと足を止めた。
    何かを踏んだ。水気とは縁遠いこの室内空間で、足下に水分を感じたのだ。
    すこし目が慣れてきた。ゆっくりとその視線を足下に落とす。しかし何も見えない。
    突如としてえもいわれぬ臭気が三波の鼻を覆う。この異様な臭いは自分が絶望的な場主にいる事を強制的に彼に分からせた。
    三浪はここで改めて覚悟した。
    水分を感じている右足を恐る恐るひき上げた。なんだか足裏が粘つくように感じられた。ぬかるみに足を突っ込んだほどではない。かといって水溜まりから足を上げる感覚とも違う。
    あいかわらず小屋内に人気は感じられない。三波はスマートフォンの画面をライト代わりにして足下を照らした。

    スマホの画面そっと移動させ、足下からその先の方を照らすように向けた。
    三波は暗がりに見えた光景に腰を抜かしてしまった。
    三体の遺体が転がっていたのである。

    「あ…あ、あ…。」

    驚きの声も悲鳴も出ない。ただ腰を抜かして腕の力だけで後ずさりするしかできない。
    床に流れる血液の上に腰を抜かしたようで、尻の辺りにもその水分をじんわり感じた。

    「三波さーん。」

    自分の名を呼ぶ女の声が背後から聞こえる。

    「京子。京子かっ!」

    大きな声を出したつもりが、身体が震えているためか全然だ。

    「三波さん?」

    しかし京子は三波の存在を小屋の中に感じたようだ。

    「来るなっ。小屋の中に入るなっ!」

    少し声量が大きくなった。

    「来るなって…わたしほったらかしておいて、それはないでしょう。」
    「んなもんどうでもいいっ!とにかく小屋の中に入るな!」

    三波の声は今度はちゃんと出た。

    「三波さん?」

    山小屋の入り口前まで来た京子は足を止めた。
    彼女の側には真新しいオフロードバイクが止まっている。それには鍵が刺さっていた。

    「京子。お前はすぐに親父さんに連絡を取るんだ。」
    「え?」
    「ここはアジトだ。」
    「アジト?」
    「あぁ朝戸が潜伏していたアジトだ。テロのアジトだよ。」

    玄関扉越しの京子から血の気が引いた。

    「さっきお前さんが聞いた破裂音は銃声だ。中の人間は全員撃ち殺されている。だから中に入るな。見るな。見るもんじゃない。」
    「殺されている…。」
    「あぁ朝戸が全員を殺して逃げた。俺は奴がここから車で逃げる様子を見た。」
    「車…。」
    「SUVだ。アメ車だ。」

    いいか。中に入るな。見てもトラウマになるだけだ。お前はとにかく親父に連絡しろ。そう三波は小屋の中から言い続けた。
    スマートフォンを取り出した京子は画面を見た。電波がない。なるほど三波と連絡が取れないわけだ。

    「わかりました三波さん。私、応援呼んできます。」

    こう言って京子はオフロードバイクにまたがり、熨子山を駆け下った。
    7 June 2024, 9:00 pm
  • 17 minutes 2 seconds
    186.1 第175話【前編】
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    「はぁはぁはぁ…。」

    息を切らして部屋の隅に膝を抱え込んで座る朝戸がいた。
    彼の視線の先には横たわる男の姿が二つ。いや三つ。
    何れも血液によって畳を黒く染めている。

    頭痛音

    「ううっ!」

    金槌のようなもので殴られたのではないかと思えるほどの衝撃が自分の頭部に走る。
    頭を抱えて彼はその場に倒れた。
    すると左肩をじゅわっとした液体の感触が走った。なんとも言えない不快な感覚だ。しかしその不快よりも頭痛の方が勝っていた。朝戸は横になった。
    すると同じく横たわっている一人と至近距離で目が合った。
    彼の方は息をしていない。
    頭部を銃で撃ち抜かれている。ただただ部屋の床をうっすらと開いた目で見つめているだけだ。

    「またやっちまった…。」

    すぐ側に一丁の拳銃が無造作に置かれていた。

    「もう、俺を殺そう…。」

    朝戸はそれに手を伸ばした。
    しっかりとした重さのあるのコンパクトタイプのグロックだ。
    その銃口を彼は自分の口に咥えた。このまま引き金を引けば、腔内を貫通して脳を打ち抜き即死する。
    朝戸は躊躇うことなく引き金を引いた。

    カチン

    銃弾は発射されなかった。
    カチンと金属音が鳴るだけで、自分の口の中を鉄のようなニオイが覆うだけだった。

    「んだよ…。」

    拳銃を放り投げた。

    「タマなしの銃なんか持ってんじゃねぇ!!」
    「やる気あんのか!!このタマなし野郎ども!!!!」

    横たわったまま朝戸は絶叫した。
    横たわる髭面の男と目が合った。目が合うといっても、彼の方はすでに絶命しているわけだが。

    「んだよ…なんでお前らはこうも簡単に死ねるんだ…。」
    「なんで俺は、お前らみたいに死ねないんだ…。」

    朝戸の視界がぼやけた。しずくのようなものが目から流れ落ちてこめかみをつたい床に落ちる。
    左肩辺りに感じていた液体の感触とは明らかに違うものだ。
    朝戸はそのままその場でうずくまって嗚咽した。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    「え?何?今の音。」

    山頂へと続く遊歩道を歩いていた片倉京子は足を止めて振り返った。
    振り返った先には先輩記者の三波がぜぇぜぇと息を切らしている。

    「三波さん。いま変な音聞こえませんでした?」
    「え?」
    「ほらなんかパンパンって何かが破裂するような音。」
    「んなもん聞こえたか?」

    と言うか京子、お前ペース速すぎ。そういって三波はそこに座り込んでしまった。

    「今向かってる、あの山小屋の方面から聞こえたような気がするんですが。」

    三波の顔色が変わった。

    「パンパンって破裂音?」
    「はい。」

    あいにく俺にはその音は聞こえていない。
    ここは熨子山山頂へ続く遊歩道。目的地の山小屋へはあと半分の距離の場所で、少し下ったところに民家が何軒かある。そこの住人にも同じ音を聞かなかったか確認してこい。

    「三波さんは?」
    「ちょっと疲れたから俺はここで休んでる。」
    「え?」
    「えって何だよ。」
    「ってかバテすぎでしょ。」
    「何言ってんだよ。俺、病み上がりだよ。病み上がりの俺を引っ張り出しておいてさ、すこしは労りとかないの?」

    京子は三波から聞かされていた。
    金沢駅で三波はある男と接触した。
    結論から言うとこの男は空閑という男であった。彼は光定公信より瞬間催眠の使い手になれるようにするための施術を施されていた。この瞬間催眠というものは、かつて鍋島惇がその能力を使って、あらゆる人物を意のままに操った能力である。三波はこの空閑によって、その瞬間催眠を一時的にかけられたようであった。
    事実、三波は空閑が求めるとおり、突如連絡を絶ち自宅に引きこもってしまった。
    しかし自宅に帰ってからはあまりにも激しい頭痛が彼を襲ったため、身動きがとれなかっただけであって、自分の行動はその催眠によって制御されている訳ではなかった。
    瞬間催眠など、にわかには信じられないオカルト話である。しかし自分の先輩である人間が体験し、しかも研究者の光定公信本人からその能力の存在を聞かされたというのだから、無視するわけにもいかない。
    第一その光定公信は東京大一大学出身の将来を嘱望される研究者だったのだ。
    その光定公信が何者かによって直後殺害された。
    瞬間催眠が本物かどうかはよく分からない。しかし状況がそれを本物だと認めている。
    三波は空閑によってその瞬間催眠のようなものをかけられてから、妙な記憶が頭の中で再生されると打ち明けていた。
    それは自分では見たことのない景色だ。
    暗闇の中に車のヘッドライトか何かで照らされる先に、轍によってかろうじて道の体をなしているようなところがある。その道を車でしばらく進むと開けた場所に出た。そこにはぽつんと木造の小屋のようなものが建っているのだ。
    三波はその小屋の姿には見覚えがあった。
    なぜならそれは9年前、世間を震撼させた熨子山事件の現場の現場であったからだ。当時、北陸新聞テレビの記者だった三波は直接その事件の担当をしていたわけでは無かったが、情報は断片的だが記憶している。
    この小屋の外観はテレビの映像でも、週刊誌、新聞記事でも見たことがあった。
    しかしこの小屋へ続く道、小屋周辺が開けた状態であるという情報は、自分の記憶にはない。
    ひょっとしてこの記憶は自分にかけられた催眠と何か関係があるのではないか。
    瞬間催眠について自分なりに調べたい。そう三波は京子に言うと、彼女も手伝うと協力を申し出た。このような流れで、現在に至る。

    「今も頭痛がするんだ…。だから京子、ちゃちゃっと行ってきてくれ。」

    こう言って三波は地面の方を見て、痛い痛いと頭を抱えた。

    「わかりました。休んでいてください。私確認してきます。」

    すまないと言って三波は彼女の背を見送った。

    「さてと…。」

    すっくと立ち上がった三波は京子の姿が見えなくなったのを確認し、一路山頂を目指して駆けだしたのだった。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    「はぁはぁ…。」

    山小屋へ続く道の前にたどり着いた。ここをまっすぐ進めば目的地の山小屋へたどり着く。
    初めてこの地に降り立ったにもかかわらず、この先の様子が想像される。
    これも妙な記憶が自分に入り込んでいるためだ。

    「あ、痛っ…。」

    側頭部がズキンとした痛みが走った。
    それと同時に視界がぼんやりとした。

    「いってぇ…。」

    三波は立ち止まった。

    「あれ…何だこれ…。」

    暗い。もっと暗いこの場所の情景を自分は知っている。この道とも言えないような道の先に開けた場所がある。そしてそこに目当ての山小屋がある。
    夜のこの場の映像が三波の脳内で再生された。

    「これだ…俺が知ってるのはここの夜だ。」

    ぼんやりとした視界が晴れると、脳内で再生されていた夜のこの場の映像は消え去り、木漏れ日が降り注ぐ今のままの情景が目に移し出された。

    「あれ?」

    三波は気がついた。
    轍が新しい。昨日までの大雨によって地面がぬかるんでいるため、その様子がはっきりと分かった。
    つい最近というかつい数刻前にここを車が通過した様子が、その轍の状況から見てとれた。

    「三波さん。いま変な音聞こえませんでした?」
    「ほらなんかパンパンって何かが破裂するような音。」

    三波はゴクリと喉を鳴らした。
    なんとも言えない不快な汗が首筋に流れるのが分かる。
    急に自分の身体が鉛のように重くなった。

    「今向かってる、あの山小屋の方面から聞こえたような気がするんですが。」

    この先ほどの京子の言葉を思い出した三波は腰を落として、身を低く保ったまま歩みを進めていた。
    余所からなるべく見えないように行動した方がいい。彼の本能がそう訴えかけているが故の行動だった。
    数分ほど進んだところで急に開けた場所に出た。
    奥に目的の山小屋が建っていた。板壁に屋根は波形のトタン葺き。
    自分はかつてこの場所に立って目の前の建造物を目にした。
    絶対にここには来たことがないはずなのに、この目で見た。
    そう思わせる記憶が三波にあった。
    だがそんな三波の記憶にないものが、今この場所にあった。

    「車が止まってる…。」

    山小屋の入り口付近に一台のSUVが無造作に止められている。

    「バイクもある?」

    そのSUVの影に隠れるようにオフロードバイクを1台、確認できた。

    「この小屋に人が集まってる?」

    瞬間、小屋からひとりの男が飛び出してきた。
    三波はとっさに茂みに身を隠した。
    よほど慌てているのか彼の足はもつれ、一度その場で尻餅をついた。そして這うようになりながらSUVの運転席に乗り込んでエンジンをかけた。
    この時、三波は途轍もなく嫌な感覚を覚えた。
    山奥にぽつんとある小屋。おそらく普段は人気が無いであろうと思われる場所に車とバイク。人が複数ここに居る。そこでパンパンという破裂音。人ひとりが慌てふためいて転がり出る。そして彼はいまひとりでその場から逃げるように見える。
    状況だけをみれば嫌な想像をしない方がおかしい。危機が間近に迫っていると知らせた三波の本能は正しかった。

    ー俺はコロシの現場にいる…。

    男が乗り込んだSUVは切り返してこちらを向こうとしている。

    ー逃げるんだ、あいつ…。

    どうっと汗が頭から首、背中から吹き出した。三波は更に身を低くした。

    車が走り去る音

    ゴウッという荒々しい2リッターエンジンの音をその場に響かせて、車は三波が潜む茂みの前を通過した。
    せめて運転手の顔だけでもこの目に焼き付けておこう。三波は草木の隙間から男の方を食い入るように見た。

    頭痛音

    「つっ…。」

    何かで殴られるような今までの頭痛ではない。電流のようなものが三波の頭に流れた。
    三波の視界の右から左にSUVがフルスロットルで駆け抜けているはずなのに、それが彼の目にはスローモーションで見える。そのため運転する男の顔をはっきりと見ることができた。

    「俺はこの男を知っている。」

    自分ではどこの誰だか分からないと言うことが分かる。しかし記憶のどこかではこの男はどんな人物かを知っている。
    そうだ。俺はこいつとコミュで知り合った。知り合ったというか俺がこいつを見いだした。
    コミュでひときわ社交的に振る舞っていた。しかしそれは彼なりの演技であることも知っていた。ある時から光定公信とよく連むようになっていた。コミュという人とのつながりを求める場所で一向に心を開かない光定。この光定の心を開かせることができるこの男。こいつなら光定をこちら側に取り込めるはずだと期待した。
    男の名は。

    「朝戸慶太。」

    思わず言葉を発していた。
    目の前を通過したSUVの姿はこの場から消えていた。

    「朝戸…あれがナイトか…。」
    7 June 2024, 8:00 pm
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