観音様へに参詣する人々が行き来する様子を物憂げに見ていた若侍が、職人の老人から話を聞かされます。貧しい娘が観音様に願掛けに行ったところ、おかしな予言を聞かされ、思わぬ出来事に巻き込まれていった話です。若侍は人の運不運について考えさせられることになります。
体が大きく見た目にも剛毅に見える馬方の三吉は、馬車で事故を起こしてしまいます。本人は悔やみきれない思いや屈託を抱えている一方で、周囲はその事故から三吉を底知れぬ乱暴者と畏怖し、怯えて接するようになります。周りに下手に出られては酔って大きな気分になり、事故を思い出しては悔やむ日々を過ごすうちに三吉はおかしくなっていきます。
桜になに想う。薄田泣菫は明治詩壇で一時代を創り、「望郷の歌」「公孫樹下に立ちて」「ああ大和にしあらましかば」といった作品は、当時の人々に愛唱されました。韻律を心地よく操る詩人であったうえに、博識で和漢洋に広く通じ、話術も巧みだったという泣菫の随筆です。
世の中には、どうにも自分に向かないことがあるものです。それでもやらねばいけない時がないとはいえません。武士の時代、侍の誰もが武芸を得意としたとは限りません。それでも支障のないお役目につければやり過ごすことはできますが、いざ武の力を問われることになったとき、どうすればよいのでしょうか? そんな侍の話です。
旅の途中で、尾羽打ち枯らした若者が玄関に現れて、空腹を訴えて救けを求めます。家主は援助と、自らの経験に基づく助言を与えます。助けられる者と助ける者、反対の立場に立つ2人の行動から人間の本質が見えてきます。
自分にないものを持って生まれているのを見れば、誰しもうらやましく思うものです。しかし持って生まれたばかりに、思いもかけぬ運命に導かれてしまうこともあるようです。美しい声で鳴くこまどりは、その可憐さゆえに大切なものを失ってしまいます。
さまざまな話が木の葉のように重なり合うなかで、太宰らしい言の葉が横溢している不思議で魅力的な短編です。ワードセンスに優れた太宰の代名詞ともいえるフレーズからはじまります。
亀井勝一郎は文芸評論や「大和古寺風物誌」などの文明批評で有名ですが、人生論や恋愛論のベストセラーも次々に生み出しました。戦後を迎えてもなお、日本には家族が絶対的な支配権を持つ家父長制の価値観が色濃く残っていました。それは近代的な自我を持った個人とは相いれない部分も多く、家族観に惑う時代にその在り方を見つめなおした一編です。
自らが不道徳や間違いを行ったにも拘らず、それを正しく罰せられることなくまぬがれたあとに、人にはどのような感情が沸き上がるのでしょうか。社会的に認められた人物であるほど、その感情は心の底に澱のように溜まっていくようです。
ひょっとこの表情はかまどの火を吹いている男の顔を題材にしているとも言われ、火吹き男が語源とも言われます。舞楽に登場すると、間抜けで助平でどこかとぼけた味があり、滑稽なキャラクターで周囲を明るくします。心に屈託を抱えながらも、人前ではそれを見せまいと、ひょっとこを演じて生きた男の話です。
妻がありながら外で遊び歩いている男が、妻を騙すために手の込んだ悪戯を仕掛けます。続けるうちに最初の思惑とは違った心境の変化が起こり、自分自身が捻じれた感情にさいなまれていきます。江戸川乱歩らしい心理小説です。