人生講座

武田邦彦

マスコミが伝えない事実と解説・・・超政治的課題から日々の生活情報まで

  • 7 minutes 56 seconds
    人生講座(11) うまくいかないことが楽しい
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    「デディケーション」、「昨日は晴れ、今日も朝」、それに「遅れず」という私の3つの人生訓の話をしました。先日のフジテレビで「デディケーション」を放送していただいたのはとてもうれしく感じました。その時に「**さん、一度、2,3ヶ月給料をもらわないで働いてみたらどうですか? 幸福になりますよ」と言ったことも放送していました。

    ところで、私はブログに「まずいものを食べること」という趣味を書いていますが、それは人間の五感のことでもあり、「人生、うまくいかないことが楽しい」ということでもあります。

    (後は音声です)

    1)まずいものを食べる、
    2)降れば濡れる、
    3)連休の羽越本線と鼠ガ関・北陸本線の事故と40万キロのタクシー

    不幸な者は幸いである。幸福になることができる。

    お金持ちは不機嫌である。

    (平成24年10月21日)
    30 May 2014, 6:00 pm
  • 8 minutes 47 seconds
    人生講座(10) 遅れず
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    あれは私が30才を少し過ぎた頃ではなかったかと思う。その頃、私は研究所にいて小さな研究グループを持つようになっていた。人数は14人ほどだった。

    あるときに、そのうちの数人と東京の品川に朝の9時に待ち合わせて、どこかに行く用事があった。私はリーダーでもあったので、8時半頃には品川の待ち合わせ場所に着いた。

    それから程なくしてボツボツとみんながやってきて、9時までに大学卒を除いて集合した。さらに5分遅れで大学卒、15分遅れで東大卒が来た。そして5分遅れた人は5分分の、15分遅れた人は15分分のいいわけをした。

    その時、私はそのいいわけを聞きながら「ああそうか、人間というのはいいわけができる時間だけ遅れるのだな」ということが分かったのである。つらつら考えてみると、30分前に最初に来た人から最後の15分遅れまで、驚くべき事にほぼ「研究能力に反比例していた」のであった。

    つまり、研究能力がほどほどの人が最初に来て、だんだん優秀になり、最後にもっとも優れた研究者が来たのだ。

    人間は生物の一種だから、自己を防衛しようとその力を発揮するのは当然である。そして動物なら腕力や牙が勝負を決めるが、人間は頭脳で優劣が決まる。ということは頭脳を武器にして自己防衛に走るのは動物としてまともかも知れない。

    研究能力がもっとも上だった東大卒の私の部下は「遅れても言い訳ぐらいできる」と考えて、一番先に来た人より45分も後に下宿を出たのだろう。

    ・・・・・・・・・

    このことがあってしばらくして、私は「遅れず」という言葉をモットーにし始めた。ながいおつきあいをしていただいている私の先輩は「武田先生より先に来るのは至難の業だ」と言われ、講演会ではご担当の人に“あまり早く講演会場に来すぎてご迷惑をおかけしている”。

    人と待ち合わせるときに、日常的なこと、たとえば講義や待ち合わせ、会議なら1時間前、講演会、披露宴やスポーツなら2時間前に到着するようにしている。

    どんなことがあっても「絶対にいいわけをしない」と決意すると、これが案外、難しい。時によっては新幹線が遅れることがあるし、意外な事故渋滞に巻き込まれることもある。それでも「遅れず」を守るのは大変だ。「新幹線が遅れましたから」といういいわけはしない。

    ・・・・・・・・・

    人生は小さな損得を考えて大きなものを失う。自分の頭脳を保身に使って大切な人生を失う。

    でも、小さな損得より誠意、頭脳を保身に使うよりデディケーションと思っても、実はやれることはそれほど変わらない。人の信頼を得ることができるが、それより自分の気持ちが楽だし、時の流れに透明感を感じる。

    このような生活を続けるためのテクニックもある。

    たとえば3時に待ち合わせがあって、そこまで30分とする。普通には電車の時間などを見て、35分ぐらい前(2時25分)にでて、電車に乗り、歩く。でも、電車が少し遅れたら汗だくになって走り、いいわけをしなければならない。

    私は1時間30分前に出る。そして、もし大学や家にいたら1時30分から2時25分まで家で時計を見ながら仕事をするのではなく、とにかく1時30分にでて、先方についたら喫茶店やどこかのベンチで「大学や家にいるとしてやる仕事」をそこでする。つまり、早く家をでても、時計を気にしながら家で何かをやっても、あるいは大学を出る時間をはかっても、結局の所、自分の人生でやることはほとんど変わらない。

    でも、少しは工夫している。たとえば「読みたい本」や「携帯電話の整理」、「パソコンに入れた音楽や解説」など、「どこでもできる」ことを少し「貯金」しておく。これも慣れるとほとんど自動的にできるので、意識は特にしていない。出かけるときにいつでもできることの道具をカバンに入れておけば良いだけである。

    いわば「遅れず」を実行するために必要な蓄えとも言える。人生は「原理原則」や「大義名分」もあるけれど、それだけに余り偏ると「実施」が難しい。単なる大言壮語になってしまうので、細かい細工や準備も必要だ。それを小道具に使う。

    ・・・・・・・・・

    今日も福島県から、「いかにして健康診断結果を隠すか」というのに腐心していたニュースが流れていたが、人生というのは何をしてもあまり変わりがないような気がする。それなら気持ちよく透明感をもって過ごしたものだ。

    (平成24年10月3日)
    30 May 2014, 5:59 pm
  • 7 minutes 44 seconds
    人生講座(9) 昨日は晴れ、今日も朝
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    少し前、私は色紙へサインを頼まれると、「昨日は晴れ、今日も朝」と書いていました。最近では「今日も朝」しか書かないことも多くなりました。

    「昨日は晴れ」・・・人間には辛い過去があります。それはよほどの人で無い限り、過去に辛いこと、思い出したくないこと、ヘマをしたことがあります。そして時にその記憶が思い起こされてうなされます。

    私も小さい頃、体が弱く、気が強く、ヘマばっかりしていました。今、思い返すと赤面し、大声を出したくなり、人生がイヤになることがあります。

    でも、今の私はそうではありません。「昨日は晴れ」と信じ込んでいます。つまり昨日が嵐であっても、豪雨であっても、寒さで凍えそうになっていたとしても、次の日には「昨日は晴れだった」と思うことにしています。

    大爆発によって宇宙が誕生して以来、時間は先に進むけれど前には戻りません。これは確かなので、昨日はあるようですでにないものなのですから、昨日は自分の記憶に残っているだけです。だから「嵐」と思えば嵐、「晴れ」とすれば晴れなのです.それなら昨日は晴れと思おうと私は考えます.

    大学受験に失敗したことも忘れてしまう、彼女と別れたこと、お金を無くしたこと、大失敗したこと・・・すべては教訓だけを残して記憶から捨ててしまいます。捨てることができるコツは「昨日は帰ってこない」と言うことを実感することです.

    ・・・・・・・・・

    そして、「今日も朝」です。

    「時」という性格上、「過去」というのは存在したのですが、「未来」というのが来るかどうかはわかりません。もしかすると昨夜、ベッドについたのがこの宇宙の終わりの時かも知れないのです。

    物理学者はまだ数10億年はあると計算していますが、それは単なる計算で未来は作り続けられているものです。つまり未来は来るかどうか分からないものでもあります。

    まして人間は宇宙に未来があっても、今日で終わりになるかも知れません。この二つのことを考えると、朝、目覚めることができたというのは僥倖でもあります。だから、朝起きたとき「ああ、今日も朝が来たな。さあ、今日一日、楽しくやるぞ!」と決意するのです。

    人には自分でできることと、向こうから来るものがあります。自分でできることの典型が「今日一日を過ごす」ということで、向こうから来るものの典型は「死ぬ」ということです。私たちはこの間でもがいているように思えます。

    ・・・・・・・・・

    昨日は晴れていて、今日に朝があれば、それで充分です。そして長期的な目標に到達するのは難しいのですが、今日一日、生きることぐらいは何とかできそうな気がします。

    (平成24年9月19日)
    30 May 2014, 5:59 pm
  • 8 minutes 22 seconds
    人生講座(8) デディケーション
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    また学生のころの話をしますが、若いので何かが起こるとすぐ激高したり、ガックリしたり、まだ心が落ち着かないのです。時々、学生が「みんなと一緒にやるのはイヤだ!」とだだをこねることがあります。特に工学系の学生は口が重く、人とうまくやっていくことができません。

    そんなとき、私は学生に次のように言うことがあります。
    私 「そうだな。人とのつきあいってややこしいから、人のいない山の奥でも行ったらどうだ。人もいないから気楽だぞ」
    学生「それはそうですけれど・・・」
    私 「でも、ずっと一人じゃ、少し寂しいだろうね」
    学生「ええ、友達も家族もいないのでは、ちょっと・・・」
    私 「それに病気をしても救急車は来ないし、歳を取ってもそのままのたれ死にだから、結構辛いものがあるね」

    学生は考え込み「そうだな。やはり一人じゃダメかも知れない」と思い直すのです。「正しければ3年」の時も同じですが、学生はこんな経験をしながら、対人関係でも我慢が出来るようになり、少しずつ成長していくものです。

    ・・・・・・・・・

    私の研究生(工学部では大学4年生と大学院生)は「耳たこ」になるぐらい「デディケーション」という単語を聞かされます。日本語に訳すと「献身」と訳されますが、すこしニュアンスが違うので今のところ、英語のまま使っています。

    人間は何かをするときに「お金をもらう」とか「報酬がある」ということが前提になっていることがあります。でも私は「お金をもらう」とか「報酬がある」と言うことをあまり問題にせずに、行動します。その理由は、学生との対話の中にあるように、「自分が生きているということはすでに報酬をいただいている」からです。

    ●一人でいると寂しい・・・ということは周囲に人がいるから自分は楽しく生きているわけで、その恩を返さなければなりません。
    ●病気になったら救急車が来る・・・ということは、周囲に人がいるから自分が病気になっても助かるし、老いてものたれ死にしなくてよいのです。
    ●食堂にいったらご飯を食べることができる・・・自分ではない誰かが作物を育て漁をし、料理までしてくれるから。
    ●トイレが綺麗だった・・・夏休みでしばらく掃除をしないトイレは汚くて入ることもできません。トイレを使う人が一人一人、乱暴な使い方をしなくてもトイレを掃除してくれる人がいないと自分は快適にトイレを使うこともできないのです。

    ということは、「自分はなにもしないのに、すでに多くの人からいろいろなことをしてもらっている」ということですから、まずはその分を返さなければなりません。たとえば、1日1時間は「寂しさを救ってもらっている分」働く、1日1時間は「病気になったり老後になったりしたら助けてもらう分」働く、1日1時間は「ご飯を食べさせてくれるから」、1日1時間は「トイレを綺麗に使えるから」、1日1時間は「道路を歩けるから」

    ・・・とすると、1日4時間ぐらいは「無償で働く」ということをしないと、回りの多くの人が自分にしてくれていることの恩を返すことができません。

    そこで、「頼まれたら無償でする」、「自分が辛いときに頼まれても、二つ返事でする」、「自分と関係ないことでも気持ちよくする」ということが第一と考えるようになりました。それからしばらくして私は「いざというときの武田」と呼ばれるようになったのです。

    たとえば一週間ぐらい前に大きなイベントの委員長などを頼んでくることがありました。「ああ、誰かに断られたか、都合が悪くなったのだな」と思うのですが、すぐ「はい」と引きうけます。

    ・・・・・・・・・

    もう一つ、デディケーションにはなりませんが、”give and take”(ギブ・アンド・テイク)というのもあります。英語の順序がgiveから始まっている理由をハッキリは知らないのですが、私は「まずギブ(与える)」、そして「テイク(もらう)」という順序が良いとも学生に言います。普段から協力して上げていれば、いつの日かそれが帰ってくるものだというおとです。

    でも主力はデディケーションなので、テイクを期待せずにギブするということです。夕刻、私がある学生を呼んで、これを明日までにやってくれないか?と言います。学生は自分に余り関係がないので、最初はブスッとした顔をしますが、そのうち、「はい」と言うようになります。そうなれば私は学問的な指導だけをすれば学生は自分で伸びるようになります。

    自分が成長し、人が幸せになるというのにもっとも良いのが「無償の行為(デディケーション)」、次に「ギブ・アンド・テイク」であることがわかります。「情けは人のためならず」という諺は、「情けがそれを受ける人のためにならない」という意味ではなく、人に情けをかけることはやがて自分に返ってくるという意味ですから、これもデディケーションでしょう。

    ・・・・・・・・・

    さてデディケーションというのを何とか日本語でと思うのですが、「人に対する献身」、「ものに忠実に専念する」というニュアンスの単語が見つからず、今もってデディケーションという英語を使っています。私は英語が専門ではないのですが、「バスケットボールにデディケーションする」という文章は成立するように思うのです(dedicate to)。この場合はやや「夢中になる」、「入れ込む」、「こだわる」というような意味を含んでいるように思うからです。

    人生はデディケーションである。デディケーションをしていて飢え死ぬことはないし、万が一、飢え死んでも後悔はしないと思ってきた毎日でした。

    (平成24年9月11日)
    30 May 2014, 5:58 pm
  • 6 minutes 43 seconds
    人生講座(7) 正しければ3年で、正しさもいい加減なら天寿を
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    この人生講座も最初は「お金」の話から入り、「健康」へと進みました。両方ともまだお話をすることはあるのですが、次に「心の問題」に入っていきたいと思います。

    学生の頃、それは私も同じだったのですが、正義感にあふれ、「自分の考えが正しい」と思うものです。若いというのはそう言うことですから、それはそれで良いのですが、時に激高して、
    「先生っ!なんで正しいことが通らないのですかっ!」
    と迫ってくることがあります。

    そんなとき、私は「そう、君が言うことが正しいの?」と聞きます。学生は勢いこんで「正しいですっ! 先生も分からないのですかっ!」とあくまでも激しい。そこで私は次のように言います。

    私 「君が正しいのなら、君は3年で絞首刑になるだろうな」
    学生「???」
    私 「イエス・キリストがお話になったことは2000年も多くの人の心を打っている。だから私や君が言っていることより正しかったのだろうね。イエス・キリストは27才で話を始め、3年後に磔にあって命を落としている。」
    学生「それがなにかボクと関係があるんでしか?」
    私 「君の言っていることが正しければ、3年で死刑になるだろうね。社会というのは本当に正しいことは通らないのだよ。ややいい加減なことは受け入れられる。無事に一生を終えようと思ったら正しいことは危険なんだよ。」

    このことがすぐ分かる学生と、時間がかかる人の違いはあるけれど、こんな事がきっかけとなって学生は成長していく。理想を捨ててはいけないが、その限界と社会を知らないと希望は達成されない。

    ・・・・・・・・・

    歴史的に見て、イエス・キリストを3年で磔にしたのは人類史上、最大の損失だっただろう。私には彼が神様か人間かは分からないが、この世に出現した人類の内で、1,2を争う人格者であり、最大の頭脳を持った人だったことは間違いない。

    2000年も経ったいま、信者でもない私が聖書を読み、その素晴らしい洞察力、人格、行動力に唖然とするしかないのである。同じように深い感動を覚えるのは、わずかに伝え聞くお釈迦様の言動やソクラテス語録だが、お釈迦様の直伝が少ないこともあって、聖書はひときわ優れているように感じられる。

    今から30年ほど前のことだったが、ある敬虔なキリスト教徒の方から芭蕉の句の入った挨拶状をいただいた。その句はとても深淵で素晴らしいものだったが、ある時にその人に会う機会に恵まれたので、私は、
    「芭蕉の句は確かに素晴らしいと思いましたが、それなら聖書の一部の方がもっと素晴らしいのに、なんで芭蕉の句が必要なのですか?」
    とお聞きした。若かったので礼儀を知らなかったからできた質問だろう。

    私の質問をそばで聞いておられたその方の奥さんも敬虔なキリスト教徒だったらしく、私の質問にいたく感心されたと後でお聞きした。私には聖書以外の書物で聖書より感銘を与えてくれるものはない。

    ・・・・・・・・・

    私も時にバッシングされる。ゆえない非難、言ってもいないのにバッシング、子供の健康を心配して「セシウムで汚染されたものは子供に食べさせないでくれ」というと全国の新聞で「不見識」と書かれる。

    凡人である私はそんなときにやや落ち込まないでもない。でもそんなとき、私はイエス・キリストを思い出す。彼と私ではそれこそ天と地ほどの違いがあるのだが、それでも「あの偉い人でも3年で磔にあった。私が被害を受けてもそんなのは小さいことだ。私もまだたいした事はしていないのだな」と思うと、心の負担は無くなっていく。

    イエス・キリストの人生を思えば、多くのことは楽になる。すべての人の罪を背負ったと多くの人が感謝している理由も分かる。

    この世に辛い思いをしている人が多いだろう。ゆえなく他人から非難されたり、身に覚えのないことで悔しい思いをすることもあるだろう。でも、世の中というものは正しければ正しいほど罰せられる、人間という生物はなにか欠陥を持っていて、その歪みをある特定の人にかぶせるクセがあるように思う。

    人間にとって正しい人生を送ると正々堂々として楽だ。悪いこと、他人をおとしめることをすると後ろめたい。でも、まだ人間の集団は一人が正々堂々と生きることを許さないのだろう。

    私が話をした学生もやがて大人になり、正義を振りかざせば負担は大きいだろうが、それでもその人の正義を貫いてくれるように願う。それが本当に正義なら、イエス・キリストの受難と同じようになるのだが、それは人間にとって誇りになり、やがて人間の集団も正しいことを受け入れるようになるだろう。

    (平成24年9月9日)
    30 May 2014, 5:57 pm
  • 8 minutes 6 seconds
    人生講座(6) 治療とはなにか?医師とは?
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    タバコ、コレステロール、血圧について整理をしてきましたが、

    有名なアメリカの医師や高名な日本の医師で次のように言っている人もおられます。
    1)可能ならすべての薬を中止せよ、
    2)老人のほとんどは服用している薬を中止すると体調が良くなる、
    と言っています。

    ・・・・・・・・・

    また、3万人を超える自殺者に対して2000人を対象に生活習慣を調べた結果によると、喫煙者は一人もいなかったということです。確かに、左手でタバコ、右手におちょこという人が人生に悩んで自殺するということもないように思います。

    実は、タバコの成分(おそらくニコチン)は頭の活動を司るドーパミン、セロトニンのような活性物質と反応し、その量を調整するのではないかと言われています。頭が混乱したとき、なにかの拍子で思い込んだとき、タバコで一服してスッキリさせるということはごく常識的なことです。

    「禁煙活動は人を自殺に追い込んだ」という表現は少し言い過ぎな感じはしますが、タバコの効用や、自殺者の生活習慣について、もう少し真剣に取り組むべきと思います。

    ・・・・・・・・・

    電車に飛び込んで自殺する人が後を絶ちませんが、45才以上の男性で飛び込み自殺をした人を調べたところ、ほぼ全員がコレステロールの降下剤を服用していたという調査もあります。

    コレステロールは性ホルモンの原料でもあり、体の調子を整えるために重要な物質です。たしかに過剰のコレステロールは動脈硬化などを起こしますが、年をとって自然に硬化する動脈をコレステロールの降下剤で防ぐことが本当にできるのか、それは全身の健康にどのような影響があるのか、研究はそれほど進んでいません。

    ・・・・・・・・・

    このブログの「専門家」の議論で何回か取り上げたのですが、医師が「治療」から「予防」にその業務範囲を広げたとき、充分な議論がなかったと私は考えてきました。

    「治療」は「故障した車を直す」ということですから、部分的であり、普通は「旧に復する」のが目的です。ですから医師は全身の健康も考えますが、第一に傷や病気を治療することを第一とします。

    しかし、「今、健康な人で将来、病気になるかも知れない」という人を「予防」するのは、まったく見方が違います。まず、「日本人の人生はどのようにあるべきか」についての社会的合意が必要です。(毎日の楽しさ)×(生涯日数)が最大になればよいのか、それとも(生涯日数)だけが問題なのかもハッキリしていません。さらには、(毎日の楽しさ)とはどういう状態なのかも議論は不十分です。

    たとえば、タバコを吸った場合、仮に1000人に1人が(タバコを吸ったことで余計に)肺がんになりやすいとします。この時に、この1000人がタバコを吸う楽しみを奪われるということを考えるのか、肺がんになった一人の人だけに注目するのか、それも考えなければなりません。

    タバコというと「俺には関係がない」という人もいるでしょう。これを「お酒」とするとどうでしょうか? お酒の好きな人は「お酒を飲めば1000人に一人の肝臓病、飲まなければ1000人に1人の中にも入らない」と聞いたら、おそらく「そのぐらいなら、お酒を選ぶ」という人が多いと思います。

    ・・・・・・・・・

    医師が「治療」について絶対の権限を持っていることはこの社会で必要なことです。でも「予防」について絶対の権限を持つにはプロとして必要な「普遍的原理」の必須要件が満たされていないと私は考えます。

    お酒、タバコ、コーヒー、コレステロール、血圧、食塩、ケーキなど日常生活で私たちが必要とするものを社会的に、かつ強制的に制限するというのはきわめて危険です。多くは「少ない方が良い」というのではなく「適正量がある」とか、「コントロールを失う病気になったら治療する」というものではないかと思うからです。

    タバコのことをきっかけに多くのお医者さんに厳しい議論を投げかけると、必ずしも「日本人の人生」について明確な答えは返ってきません。むしろ、環境問題でよく見られるように「俺の人生は正しいから、それに基づいて指導する」という考えも見られます。

    「治療」ではなく「予防」の時に、医師や社会がどのぐらい個人の行動を制限することができるのか、「迷惑をかける」というのはどの範囲を言うのか、もう少し論理的で学問的な議論を求めたいと思います。

    ・・・・・・・・・

    ところで私のような「教師」というのも専門職ですが、大学の講義を見ていると、「大学の先生は普遍的な事実を学生に教えるのであり、自分だけの考えを学生に教えてはいけない」というプロの原理を良く理解されていない先生が多いように思います。

    かつては欧米で書かれた確立した教科書に基づいていたのですが、学問が多様化し、社会との距離が縮まるとともに、実にいい加減なことを教えている先生が多いのですが、このようなことも「御用学者」を生んだ一つの原因になりました。

    「いい加減で良い」というのは、医学でも科学でも同じく注意を要します。

    (平成24年9月6日)
    30 May 2014, 5:57 pm
  • 12 minutes 37 seconds
    人生講座(5) 血圧が高い方が良い
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    (かつては年齢+90が適正な血圧と言われました。でも、今は基準が変わり「高い」というのは血圧が気になる年齢で、働き盛りの人で130以上のこと言います。本当に131は薬を飲まなければならないほどの高血圧症なのでしょうか?)

    私がこのブログで、タバコ、コレステロール、そして今回のように血圧などを書くと、「なにをそんなにムキになっているんですか?」と訝る方もおられますが、私は地震予知にしても、このような健康問題にしてもこだわったり、ムキになったりすることはありません。

    ただ、地震では東海地方に先に地震が来ることが「分かっていない」のに、あたかも「東海地震が来る」と言って、阪神淡路、東北の大震災の犠牲者を出しました。

    地球温暖化もそうですが、科学的な衣を着て、実は狙いが別にあるという場合、その結果として、今回の原発事故のように甚大な被害が起こることがあります。それでも中部電力課長は「死者がでていないのだから、あれは事故とは言えない」と言いました。

    こんな考えですと、「発がん物質を売ってなにが悪い。すぐガンで死ぬわけではないのに」とか「アスベストを使って何が悪い。20年ぐらい経たないと死なない」という理屈になり、社会がムチャクチャになってしまいます。電量会社の幹部が「反社会的」であるというのは問題です。

    前回の人生講座で説明したコレステロールでもそうです。体内で70%も作られ、必須のものなのに「悪玉」などと批判し、その実は薬の売り上げのことだったというのでは残念です。事実、コレステロールを抑制して、死亡率があがり、飛び降り自殺が増えているのですから、死の商人でもあります。

    ・・・・・・・・・

    さて、今回は「血圧」を取り上げますが、これも単にネットで勉強してというのではなく、少なくとも専門のお医者さんごはお話して書いています。

    血圧が高すぎる(180以上)のが問題であることは言うまでもありません。でも現在の指導血圧(130ミリ)は年配者にとって健康を害するほどの「低い血圧」なのです。血圧は「低い方が良い」のではなく、「適度な血圧が望ましい」ものだからです。

    なぜ「血圧」というのがあるかというと、体全体に血を流すので、そのために「ポンプの圧力」がいるからです。何しろ体の隅々まで、毛細管まで血を流すのですから、圧力がなければ流れません。それでも人間はまだ低い方で、キリンや恐竜などの大型動物ですとかなり高い血圧でないと頭まで血液が届きません。人間も、血圧が低くなると問題が起きます。

    そうかといって圧力が高すぎると地を運ぶホース(血管)が破れてしまいます。だから、どうしても「適当な圧力」が必要となります。適当な圧力とは、(「血圧が高いとかかる病気」+「血圧が低いとかかる病気」)の合計を減らすことで、片方だけを減らしてもダメです。

    血圧が高くなると出血性の病気(脳出血など)になり、血圧が低くなると虚血性の病気(脳梗塞など)になります。脳出血は病気で、脳梗塞は病気ではないなどということはありませんから、「適正な血圧」が必要です。

    まず第一に知ることは、人間には血圧を正常に保つ機能があり、その機能がダメになるのが「病気」であるということです。人は病気になると薬で血圧を上げたり、下げたりする必要がありますが、正常なら体が判断して「この血圧が適切だ」としている場合は薬で調整する必要はありません。

    コレステロールや痛風の原因になる尿酸なども同じですが、体内で70%から80%も合成されるものは、体が病気(適正な量をコントロールできなくなった時)だけに治療が必要です。つまり、正しい方法は「血圧が異常に高くなった」と言うときには「血圧を下げる薬」を使うのではなく、「血圧をコントロールできなくなった体を直す」というのが本来の治療です。

    かつて「肺炎にかかったらペニシリン」という時代がありました。これは肺炎の原因となる細菌が抗生物質ペニシリンの注射を打つことによって細胞壁を作ることができなくなり、その結果、増殖が抑えられて肺炎が治るということでした。これでずいぶんの人の命が助かりました。

    これとは逆にインフルエンザにかかって熱がでたという場合は、ウィルスの治療薬がなかったので、「とりあえず胃腸の薬を出しますから、ゆっくり寝て栄養のあるものを食べてください」ということになります。つまり、治療薬がなければとりあえずの苦痛を除いたり、回復を早める薬を出すのであり、解熱剤は当座の苦痛を和らげたりする役割で、本当の治療とは言えません。

    「血圧を正常に保つ」という薬はまだ普及の段階にないので、おどろくべきことに「血圧が正常かどうかを診察せずに決めて、決めた値よりおおきければ降下剤を投与する」という馬鹿らしいことをやっているのです。「日本国民はまったく個性や個人差がないので、血圧の正常値を一律に決める」と厚労省が決め、今は130ミリ(65才以下)になっているという野蛮な状態です。

    そして医師は労働者のように患者さんが来られると血圧を測り、130以上の場合、その人にとって病気でもなんでもないのに、降圧剤を出すということになります。そしてなんでもお役人を信じるという人が「俺は130以上なのに医師は降下剤を出さなかった。医療過誤だ」というので、病院は面倒でもあり、薬価もあるのでお薬を出すという具合です。

    なにしろ、国民の1000万人以上が病院で「高血圧の病気」と言われ、推定で5000万人が該当するとも言われています。国民の約半分が「病気」になるという奇妙な基準なのです。

    ・・・・・・・・・

    それでは、どの程度が「適度な血圧」なのでしょうか? 日本でも有数の優れた医師にお話をお伺いすると、「その人個人や年齢によって違いますので、一概に言えませんが、140,150ミリぐらいは問題がない場合が多く、強いて数字で言えば180を超えるようなら注意が必要でしょう。むしろ下の血圧も注意しなければなりません」と言われる。

    また病気には血圧が高いと血管が破裂するという場合と、血圧が低いと血管が詰まるという場合があり、高ければ危険、低ければ危険ということはなく、「その人にとって適正な血圧が良い」という当たり前のことなのです。

    また、今の基準のように130以上は高血圧とすると、50才以上の日本人の半分が「病気」ということになります。人間の体は自らが調整する力を持っており、必要も無いのに降圧剤を服用することは勧められることではありません。

    端的に言うと、今の「高血圧騒動」は「国民の健康」を犠牲にして「薬の販売」を優先するというお金中心の社会から出てきたものです。ちなみに食塩を摂る量では全国で上位である長野県の男性の平均寿命が日本の都道府県の中でもっとも長いということが、「高血圧騒動」、「減塩騒動」の間違いを良く表しています。

    (平成24年9月1日)
    30 May 2014, 5:56 pm
  • 11 minutes 11 seconds
    人生講座(4) コレステロールを増やして健康で心の安定を
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    タバコに関して肺がん死との関係が薄いという記事をときどき書きますと、「何をそんなにムキになっているのか!」とおしかりを受けますが、これも専門の先生とも充分に議論をしています。今回もやや似ていますが、同じです。

    年齢が55才から60才の男性・・・そろそろ定年でもあるし、家族の心配事も多いという男性の更年期障害がでるころですが・・・の調査によりますと、駅から飛び降り自殺をした人のほぼ100%がコレステロールを下げる薬を飲んでいたということが分かっています。コレステロールは気分を安定させる効果があり、それを抑制されるので飛び降り自殺をしたくなるというのが調査の解析です。

    女性の裸体を描く画家が長寿であることが知られていますが、性的な活力が長寿のもとでもあり、頭の回転も速く、積極的で呆けにくい事も知られています。これは体内のコレステロールの4分の1が脳に集中し、脳の活動の多くを担っているからです。積極的な気分になるためにはコレステロールが大切です。

    ・・・・・・・・・

    かつては個別のお医者さんが「患者さんが病気かどうか」を決めていましたが、今では「薬品会社からお金をもらっている厚労省関係の医師が病気の基準を決め、それに反すると医師が医療過誤になる」という恐ろしい時代になりました。その結果、コレステロールでは「220ミリ(mg/dl)」以上なら病気ということで、薬を出されます。

    しかし、事実は、違うのです。
    1)総コレステロールが160ミリ未満の人は、280ミリ以上の人に比べてガン死亡率は5倍以上(日本の大規模な研究)、
    2)死亡率がもっとも少ないのは、コレステロールが200ミリから280ミリの間で、「コレステロールが高い」と診断され、下げる薬をもらっている人の大半が死亡率を高めている(日本の大規模な研究)、
    3)コレステロールの値が高いほど、肺炎やインフルエンザなどに感染し、死亡する人が少ない(アメリカの研究)、
    4)コレステロールが40ミリ上がると、脳卒中の可能性が3分の2になる、
    などが分かっています。

    それでも「コレステロールを減らそう」という声がなくならないのは、第一にコレステロール値を下げる薬の市場が実に5000億円で、しかも薬会社はテレビ、新聞などの広告の大スポンサーであり、医師にあらゆる便宜を図っているからです。本来なら薬会社は「人の健康を増進する」というのが社会的な役割ですが、それが反対になっています。

    第二の理由は「ウソの研究」です。ウソというと少し言葉が厳しいのですが、コレステロールの初期の研究には誤り(意図的ではない)があったのですが、それが薬の販売と関係しているので、否定されていないということです。だから今ではやや「ウソ」の部類に属するようになりました。

    まず、今から実に100年前のロシアの研究(ロシア革命の直後)で、「コレステロールが動脈硬化の原因になる」とされたからです。この実験はウサギで行われたのですが、ウサギは草食動物でコレステロールを食品から採らないので、人間と違う結果が得られたのです。

    次に、アメリカで「食品中のコレステロールを採ると、血中のコレステロールが上がる」という間違った論文が出たからです。この論文は後に否定され、今ではこの論文で示された関係は使われていません。その理由はコレステロールの70%は体内で合成され、食品からあまり摂り入れられないと体内で合成し、食品から入ると体内の合成量を減らすからです。

    最後に「悪玉コレステロール」と言った人がいるからです。だいたい、健康で正常な人が体内で「悪玉コレステロール」などを作るはずもないのです。「善悪」は人間の心にあるもので、人間の体の作用に「善悪」はありません。善玉と言われるコレステロールは直接、体に必要なもので、悪玉と言われるものは、善玉を運搬する役割を負っています。

    研究の最初のころ、「悪玉」と呼ばれるコレステロールの役割が分からなかったこと、コレステロールは悪い物質と思い込んでいたことからついた名前で、もし悪玉が少なくなると善玉を運ぶこともできず、死亡率が上がります。

    だいたい、人の体にあるものを「善悪」などと分かりやすい名前をつけて薬を売ろうなどいうことが問題なのです。私もコレステロールを勉強してビックリしました。いかに間違った情報が蔓延しているのか、それによって死期を早くした人は本当に可哀想です。

    こんな誤解が生まれるのは原子力と同じように「閉鎖的な村社会と特定の官庁」の組み合わせの時で、被害が国民におよぶということと思います。そしてここに示したコレステロールのデータや解釈は「立派なお医者さん」の多くが支持していることです。でも穏やかな人は強いて間違いを言っている同業者にあまり強く言わないのが普通です。

    また、女性の方で家族の食事に注意している方は特に「コレステロールは良くない」などテレビでの知識に左右される傾向があります。テレビが薬品会社に強く活動を制限されていることは家族を守る意味で知っておかなければならないと思います。

    (平成24年8月31日)
    30 May 2014, 5:55 pm
  • 6 minutes 45 seconds
    人生講座(3) お金の巡り方・損しない方法
    「jinsei3tdyno.219-(6:45).mp3」をダウンロード


    さて、人生講座の第一回、第二回で、貨幣経済の中では「節約」は「消費を促進する」と言うことがわかり、そのお金を狙っている人は「政治家、お役人」などであることも理解できました。

    お金のことを考える時には、「国家」と「家計」を分けることが大切です。「国家としては・・・すべきだ」ということと、「自分のお金は・・・しなければならない」というのは違うからです。

    経済学者は国全体のことを考えているので、「国家はこうすべきだ」という話が多いし、それで良いのですが、「では、個人は?」とお聞きすると「まずは国家だ」と言うことになります。

    でも、国家がまともになるには時間がかかり、そのうちに自分の人生が終わってしまう、少なくとも「人生を楽しむ時期」を逸してしまうので、とりあえず、「現在の社会ではどうするか?」ということと「社会が改善されたらどうするか?」を分けておいた方が良いことになります。

    家庭のお金を考える時に、まず第一にお金の流れが、当面、
    1)現在の社会があと10年は続くこと、
    2)民間の活力がないのでお金があまりそれが国債になること、
    3)国債を償還(返す)ために国は増税を続けること、
    4)増税のもともとの責任は国民にあるけれど、国民がお金を借りたくなるのに時間がかかること、
    5)ややデフレ傾向で進むこと(お金を持っている方が得)、
    であることを理解しておきます。

    つまり、日本経済はじり貧になりますが、お金回りがバブルが崩壊してしばらくした状態の2分の1ぐらいになるまで、国民の不満は爆発しませんから次の時代には行かないでしょう。

    もう一つは「年金と相続税」の関係です。こちらの方は、
    1)年金は少ししか払われない、
    2)相続税は高くなる、
    3)だからよくよく自分の寿命を考えて老後の計画を立てる、
    4)その結果、ある程度、質素な生活をしなければならないし、それは結果として消費を促進するので環境的にも良くないけれど、仕方が無い、
    5)貯めたお金の半分ぐらいは帰ってくる。後はお役人とかお役人の腰巾着に使われてしまう、
    6)もっとも良い方法はお役人の腰巾着になって、多くの人が貯めた預金(国債)、税金(消費税)を食い物にする(道徳的にはダメだが、個人としては成立する)、
    7)次に良い方法は「優しいお母さん方式」(自分の身を捨てて近い人に献身する)、
    ということになります。

    ・・・・・・・・・

    政府が本当に国民のことを考えてくれれば良いのですが、そういう時代ではありません。先日、「原発を止めると誰が困るの?」という質問に偉い人が「政府、電力、関係会社」と答えていました。もちろんまともな政府なら「誰が困る」と聞かれたら間髪を入れずに「国民」と答えなければならないわけで、それができないことを前提にしなければなりません。

    税金は財務省のお役人の出世に、年金は厚労省のお役人の隠れ蓑に、環境関係のことは環境省のだましに使われるだけですが、これも国民との力関係ですから、今のところやむを得ないというところです。

    救いがあります。それは「まだ、日本は世界一強い」ということです。それは「円の相場」を見ればどんな理屈よりハッキリ分かります。確かに「ドルをもらっただけ円を刷れば円が下がる」と言うのも確かですが、円を刷らないことそのものも含めると、「円が高い間は日本は大丈夫」と言うことでもあります。

    人間というのは自分の収入が2分の1になるまで暴動を起こさないものです。これは日本ばかりではなく諸外国でもほぼ同じで、我慢できる範囲は我慢してしまうのが人間というものです。だから2020年まではあまり大きな事は起こらないと言うことになります。

    もともと財産は、現金性、他人性(株、献身)、物質性(ゴールド、土地)の3分割方式が良いのですが、当面は現金性のものをやや多くし、2020年までに徐々に他人性、物質性を増やして次の時代に備えるということでしょう。年金と老後の生活については次回に整理してみたいと思います。

    (平成24年8月17日)
    30 May 2014, 5:54 pm
  • 9 minutes 50 seconds
    人生講座(2)節約したお金を狙う人たち
    「tdyno.215-(9:50).mp3」をダウンロード
    人生講座の第一回に「貨幣経済のもとでは節約することはできない。かえって節約は消費の増大になる」ということを書きました。第2回目は「そんなことはわかっているのに、なぜ政府や偉い人は節約を国民に勧めてきたのか。その目的はなにか?」を考えてみたいと思います。

    もし世の中が安定していて、年金なども崩壊しなければ、いざというときに少しの貯金は別にして、その年に稼いだお金はおおよそその年に使ってもそれほど不安はありません。というのは、人間は小さい頃から勉強し、がんばり、仕事をしてお金を稼ぎます。そうして少なくても多くても、稼いだお金で楽しい人生を送るのが本筋だからです。

    もちろん、楽しさはお金の額とは直接的には関係がありませんが、小さい頃にお母さんに「一所懸命、勉強しなさい」と言われるのは、お母さんは子供に、少なくとも人並みに、できれが人より少しは良い生活をさせたいと思うからです。

    だから、月給が20万円より、30万円の方が良いと素直に考えた方が良いでしょう。買いたい物も買えるようになりますし、たまにはおいしい物も食べられるからです。

    30万円使って楽しい生活をすれば良いのに「地球環境のために」「節約する」ということは、お母さんがせっかく与えてくれたチャンスをいかさずに、無理矢理、暗い人生を送ることを意味します。

    もちろん、30万円を節約して20万円で生活しても12月になったら12ヶ月の間、節約して貯めた120万円を下ろしてパッと使うというのならよいのですが、それでは節約には入りません。

    毎月使わずに一度に使うというのは、個人としてはお金をいつ使うかの問題だけですし、環境としては120万円がダブルで使われる(銀行からお金を借りた他人が120万円、それにさらに自分が120万円使う;前回説明)、余計に環境に悪いのです。

    ・・・・・・・・・

    それではなぜ、政府は「もったいない」とか「節電・省エネ」とかいうのでしょうか? まず考えられることは、国民が節約するとそのお金が政治家や官僚に入るからかもしれません。

    つまり、かつて(たとえば、戦後や高度成長時代)は国民が節約したお金は銀行を通じて民間の企業に行き、そこで国民が欲しい製品を作ってくれました。つまり、普通は「節約すると、そのお金で企業が自分の欲しいものを会社が作ってくれた」ということになります。銀行はその仲立ちをして社会に貢献していました。

    簡単に言うと、ある人が100万円を預けると、企業が100万円を借りて、120万円で売れるものを作り、自分は10万円を稼ぎ、銀行に110万円を返し、銀行は5万円をとって、その人に105万円を返すという具合です。これなら、預金した人は5万円、銀行も5万円、企業も10万円と全員が喜んだ時代でした。

    ところが今から20年前にバブルが崩壊して、成長が止まりました。経済成長の時代に100万円借りていた企業が(簡単に言うと)居なくなってしまったのです。同時に「環境の時代」になり「もったいない、節約しよう」という人が現れました。かつて100万円を銀行に預けた人は節約して150万円預けるようになったのですが、借りる企業が居ないので銀行にお金が留まるようになります。

    企業は経済成長が止まるだけでも困るのに、「節約ブーム」で50万円を残すようになった(100万円貯金していた人が150万円貯金するから)ので、それだけ売り上げが減って、お金を借りて増産するどころか、事業を売らなければならないようになります。

    この150万円が1年もたたずに引き出して使ってくれるとまだ何とかなったのですが、「年金不安」と「環境を悪くするから」ということで預金を下ろして消費することもしなくなったのです。

    ・・・・・・・・・

    そうすると、銀行にお金があふれたので、まず金利をほとんどゼロにしたのですが、それでも銀行が赤字になります。そこで銀行の首脳部が政府にかけあって「余ったお金で国債を買いますから、国債を出してください」と言います。最初のうちは政府も「赤字国債になるからダメ」などと言っていたのですが、企業が借りなければ政府が借りないとお金のつじつまが合わないので、赤字国債を発行し始めます。

    これでとりあえず日本のお金のつじつまは合うようになりました。(簡単に言うと)ある人が150万円を銀行に預けると、国が赤字国債を出して銀行がそれを買い、国は1年に5万円の利息を銀行に払います。もちろん、国の仕事は福祉にしても教育にしても(お金を配るだけのことで)赤字ですから利息に払うお金も国債を売って何とかします。

    つまり「国民が節約し、企業が借りなくなったので、国が国債を出して借りる」ということが20年間にわたって続いてきたのです。国に集まったお金は、1)お役人の給料や国の施設、2)天下り先の給料(天下り先には国債のお金が行く)、3)箱物行政で施設ができる(八ッ場ダムのようなもの。半分がムダで、半分ぐらいは国民のためになる)、4)ムダな補助金を配る(たとえばバイオ燃料開発に6兆円を出し、すべて失敗して失う)などとして消えていきました。

    ・・・・・・・・・

    そして20年。ついに赤字国債が1000兆円に近づいたので「財政健全化」のために消費税の増税を行います。つまり、国民が節約したお金は国に渡り、政治家やお役人本人や、彼らと親しい人のところにいきましたが、なにしろ効率の悪い仕事に使われるので、半分ぐらいはムダに消えていったのです。

    節約して150万円預金した人はどうなったでしょうか? 国が150万円を借りて、半分は役人の天下りなどに使い、半分は預金した人も利用した箱物(公民館など)を作り、そこに働く人の給料を払い、冷暖房費で消えていったのです。簡単に言うと、150万円のうち、100万円を捨て、50万円ぐらいを公共サービスとして受け取ったということになります。

    かくして国民が節約したお金は政府が使ったので、環境という面ではなにも変化はありませんでした。つまりこの場合も「節約」は「環境を改善する」事にはなりません。

    さらに、国の借金が増えたので、「財政再建」のために消費税を増税することになり、その人は税金で150万円を取られます。国民はますます不安になり、銀行に預けてある150万円は引き出さず、税金は150万円取られるので、使うのを150万円減らさなければなりません。ますます不景気になり、政府に親しい一部の人を別にして、国民総貧乏化が進行中ということになりました。

    でもお役人は裕福になります。なにしろバブルが崩壊してから20年。国民に節約さえ呼び掛ければ赤字国債を出してお金が入ってきますし、赤字国債が貯まりますから、それを補填するためにさらに消費税を上げればまたお金が入ってくるからです。奇妙なことですが、善意で節約をしてきた人はずいぶん日本国民を苦しめましたとも言えるのです。

    「環境のために節約を呼び掛ける」というのは「お役人がお金をもらう」ということでもあったようです。(さらに、消費税を増税したお金がどこに行くのか、私たちの人生はどうしたらよいのかなど次回以後に踏みこんで考えてみます。)

    (平成24年8月11日)
    30 May 2014, 5:53 pm
  • 7 minutes 20 seconds
    人生講座(1)節約と人生
    「jinsei01tdyno.212-(7:20).mp3」をダウンロード


    世界には約60億人を超える人たちが生活をしています.その一人一人は、それぞれ自分、家族、国家、そして世界を考えながら、それぞれの人の人生観や価値観に従って生きています.

    たとえばここに「節約が大切」と思っている人がいるとします。その人がなぜ「節約が大切」と思っておられるのかはハッキリしません.普通に考えると「お金を貯めたい」のか、「地球環境を考えてのこと」かどちらかのように思います。でも、この二つは個人の損得と地球環境ですから、全く違うものでかみ合わないはずです。

    ある人(Aさん)が「お金を貯めたい」と思って「節約」をしたとします。昔なら銀行が発達していなかったので、節約して余ったお金をタンス預金する人も居たと思いますが、今ではほとんどの人が銀行に預けるでしょう。

    銀行に預けたお金は銀行の金庫に入っている訳ではなく、直ちに貸し出されます。銀行預金の利子がどんなに少ないと言っても、利子がつきます。一方、銀行は町の一等地に店舗を構え、冷暖房や電灯をつけ、世間の平均より高い給料をもらっている銀行員が働いています。かなりの経費がかかるのでいくら利率が低くても、預金されたお金を運用しないとやっていけません。

    かくして銀行はできるだけ金庫のお金を減らして貸し出ししようとするのは当然です。つまり、節約してお金を余し、それを銀行預金すると、そのお金はすぐ別の人が使います。銀行の本来の働きは社会で余剰となったお金を預かって、それをお金を必要とする人に回すことによりお金の効率的な利用をはかることにあるわけですから、社会の正常な働きです。

    仮に1年ほど銀行にお金を預けたAさんが、銀行から引き出して自動車を買ったとします。そうするとAさんが節約したと思っているお金は、銀行から借りた人が使い、Aさんが使いますので二度使われます。つまりAさん個人も節約したことにはなりませんし(お金を使う時期がずれただけ)、社会はAさんが節約した分だけ2倍の消費をすることになります。

    Aさんは日頃から「私は環境が大切と思うから、タクシーを乗らずにバスを利用するのよ」と言っていました。彼女がタクシーに乗ればそれだけお金を使いますから、お金が余らずに預金できなかったでしょう。彼女はいったい、何を考えているのでしょうか?

    ・・・・・・・・・

    かつて、たとえば江戸時代ですが、貨幣経済が発達していない頃、特殊な場合には本当の意味での「節約」は可能でした。たとえば、薪(たきぎ)が足りないとき、少し寒いのを我慢して囲炉裏にくべるのを少なくするというようなケースです。それでも、もし自分の裏山が充分に大きければ、むしろ積極的に薪として使った方が裏山を守ることもあります。

    ただ、貨幣経済ではないので、「使わない分だけお金が余る」という事はありません。使わない分だけ「物」が余りますから、それはまた別の機会に使える場合があるということになります。

    この話は主婦の方はピンと来ないかも知れません。主婦の方は普通、毎日、節約の連続で、少しでもムダ使いを少なくしようと努力されています。でも貨幣経済の元では、「ムダを少なくする」というのは「多のものを買う」ということを意味していますから、家庭としては良いのですが、環境を良くするということにはつながらないのです。

    「個人が節約すると、消費が増える」という奇妙な現象は「合成の誤謬」と言う難しい言葉を使うことができます。貨幣経済のもとでは、一人の人がやる目的が、全体としては逆の方向になることが多く、それは経済学ではよく見られることでもあります。

    では、なぜ政府や官僚、そして識者と呼ばれる人が「環境を良くするために節約に心がけましょう」と言うのでしょうか? 私たちの人生には「節約」とか「質素な生活」というのはあり得ないのでしょうか?

    (平成24年8月6日)
    30 May 2014, 5:53 pm
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