フリーランスっぽく働くみきとのぞみの二人で、1冊の本を実際に読んで感じたこと、思ったことをふんわり楽しく話すPodcastです。どこまでもわかりやすく。わかりやすいことを深く・広くをテーマにしています。 "読むことは人を豊かにする。聴くことは人を謙虚にする" ビジネス書から戯曲・小説、ノンフィクションまで幅広く。 肩の力を抜いて、楽しんでいただければと思います:-)
『人間にはたくさんの土地が必要か』最終回となるpart3では、トルストイ本人の生き方から、現代の「反資本主義ブーム」まで、話題が一気に広がっていきます。
のぞみはまず、トルストイの人生をざっくりおさらい。 裕福な伯爵家に生まれ、『戦争と平和』を書き、晩年には「私有財産なんていらない」と悟りつつも、実際には家督と財産を背負い続け、最後は82歳で家出して地方の小さな駅で亡くなった——そんな「思想と現実に引き裂かれたおじいちゃん」の姿に、自分の将来をちょっと重ねてみます。
そこから話は、斎藤幸平をはじめとする「反資本主義」言説や、それを批判する論者たちへ。 「欲望に振り回されているパホーム的な人よりも、“それを見抜いて批判してるつもりの人”のほうが、実は一番ダサくて品がないのでは?」という、みきの鋭くも笑える読み解きが飛び出します。
二人がたどり着くキーワードは「バランス」。 NPOと営利事業を両立させる組織の話や、矛盾を抱えたまま成立している社会の構造を例にしながら、 「矛盾してるよね」と指摘して終わるのではなく、 シーソーの両端にある価値をどう同時に抱えるか——その難しさと価値を考えます。 パホームのような“行きすぎた欲望の人”がいたからこそ、フロンティアが開かれてきた面もあるのでは?という視点も。
後半は一転、「寓話」という形式そのものの話へ。 トルストイの短編や三体の“プレートに刻まれたメッセージ”を引きながら、 短くて、情景が浮かんで、読みながら比喩としても受け取れてしまう—— そんな寓話のすごさと、自分たちもいつか一本は書いてみたいという願望が語られます。
最後は、みきがぽろっとこぼしたアイデアで締めくくり。 老後、伊勢丹で貯金をすべて使い切り、 そのあと延々と昔話をしながら死んでいくおばあさんの寓話—— 「人間は、昔話をしながら死んでいく」というテーマで、いつか自作寓話を一本書いてみようか、という約束めいた冗談でエピソードは終了します。
トルストイとパホームを入り口に、 欲望とバランス、矛盾を抱えたまま生きること、 そして「自分ならどんな寓話を書くだろう?」というところまで、 じわじわと話が広がっていく『人間にはたくさんの土地が必要か』part3です。
みき=「人生、事件少ないな〜っていつも思ってるほう」 のぞみ=「長野の退屈でも案外ハッピーだった世界観を背負ってるほう」 として、このpart2はこんな回です👇
トルストイのパホームは土地に取り憑かれていくけれど、 もし彼が2020年代に転生していたら——狙うのは「タワマン」「フォロワー数」「課金コンテンツ」だったかもしれません。
今回のpart2では、みきとのぞみがパホームの欲望を、現代の私たちの「これさえあれば」に引き寄せて語り合います。
渋谷に実在するという、ギャルやインフルエンサー志望の子たちが SNS運用を学ぶ学校の話から、上限のないフォロワー数・エンゲージメントの世界へ。 目の前に広がる畑や牧草地としての「土地」と、 スマホの中の数字としての「資産」や「影響力」。 見える欲望と、見えない欲望は、どちらの方が人を狂わせるのか——?
のぞみは「日々、十分だなと思って生きてる」と話しつつ、 長野の、毎年ほとんど同じことが繰り返される退屈な田舎で それなりに幸せに暮らす人たちを見てきた感覚から、 「退屈=悪いことじゃないし、最悪そこに戻ればいい」という妙な安心感を打ち明けます。
一方のみきは、「お金もっと欲しいし、人生ちょっと物足りない」「暇で退屈、めちゃくちゃ分かる」と、 『暇と退屈の倫理学』の話まで引っ張り出しながら、 いつもどこかで「事件」を求めてしまう自分を認めます。 同じパホームを読んでも、「日々タルを知る」側と「まだ足りない」側で、見えてくるものが違うのが面白いところ。
そして話題は、作品に出てくる悪魔と、歩き出す前の晩に見る不吉な夢へ。 「どこかから見張られてジャッジされている感じ」のロシア正教的な世界と、 お天道さまや八百万の神様が“そばにいる”日本的な宗教観の違いを、 二人の育ちや肌感覚から比べてみます。
現代のパホームは、どんな「土地」に取り憑かれてしまうのか? 自分の中で際限なく膨らみがちな欲望は、お金なのか、住まいなのか、フォロワーなのか、それとも「もっとドラマチックな人生」なのか。
そんなことを、エロボイスチャット課金おじさんという極端なたとえまで持ち出しながら、 笑い半分・ため息半分で考えてしまう回が、この『人間にはたくさんの土地が必要か』part2です。
今回の課題本は、トルストイの短編『人間にはたくさんの土地が必要か』。 ……のはずが、冒頭はインフルエンザで学年閉鎖になった小学校の話からスタートします。健康の話ばかりするようになった自分たちの年齢感に苦笑しつつ、みきは「都内ホテルで一泊して、伊勢丹ギフトを上限まで使い切る」というバースデー大散財プランを報告。妹と平成のヒットソングを肴に、一日中“昔話”をしてしまった自分を振り返ります。
一方ののぞみは、男友だち3人飲みで盛り上がった『DIE WITH ZERO』論争を持ち込みます。「お金より思い出のほうが“複利”で増える」というコンセプトは本当にそうなのか? みきは、演劇プロジェクトで出会った「経験を積むことに意味はあるのか?」と問い続ける65歳デザイナーのエピソードを紹介し、スキルとして換算しづらい経験や感情の記憶をどう捉えるかを一緒に考えていきます。
そこからようやくトルストイへ。のぞみが、不動産業者のニュースレターでこの作品に再会した話をしつつ、主人公パホームが悪魔に見張られながら、より広い土地を求めて走り続け、最後には自分のお墓一つ分の土地しか残らない——という寓話のあらすじを語ります。不動産屋さんが「俺たちはパホームより速く走り抜ける」と読んでしまう危うさに、二人で苦笑しつつゾワッとするくだりも。
「どれくらいまでが“今”で、どこからが“昔話”なのか?」 「お金や土地、“もっと欲しい”という気持ちに終わりはあるのか?」
健康・老い・思い出・経験の価値をぐるぐる話しながら、トルストイの問いに近づいていく導入回が、このpart1です。
「地下室」にとどまる生の魅力と危うさをもう一度見直します。
みきは“働かず読書に没入する理想”に惹かれつつ、それが行動不能のこもりへと傾く怖さを自省。比喩として、日光と外気のある「離島の図書館」を挟み、閉鎖と開放のバランスを考えます。
のぞみは、リーザの出自(リガ)からバルトの光の弱さ/陰影を想起し、作中の階段描写を手掛かりに“地下室”の物理的条件や時系列(役人時代の住まい)を検討。さらに、執筆当時の連載状況と家族の不幸に触れ、作品の陰影を背景から補助線で引きます。
後半は、オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』と並走させ、
「自己完結の独白がSNS空間に溢れると何が起こるか」「欲望の押し付けと合理主義の限界」を検討。
同時に、『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』へ視野を広げ、こもる独白から他者との応答へと開くドスト作品のダイナミクスにも触れました。
第二部のリーザの場面を軸に、語りの“痛さ”ではなく行動不能としての地下室男を読んでいきます。
みきは、第一部(40歳の独白)→第二部(20年前の回想)という配置が、主人公のこじらせを終生のものとして浮かび上がらせる点に注目。さらに、主観の濁流に客観的事実を少量混ぜるドストエフスキーの叙述のうまさ(例:リーザが札を置いて去る)を指摘します。
のぞみは、自己完結に陥る近代自我への対抗としてテニスのダブルスを参照。二人で“一つの身体”のように動く感覚や、柔道・剣道・将棋に見られる儀礼=共同で場を整える意識から、勝ち負けとコミュニケーションを両立するモデルを考えます。
終盤は、「地下室」は孤立の象徴であると同時に、こもり続けられる“特権”にもなりえるのでは、という論点へ。主人公とは距離を置きつつ、誰の中にもある“小さな地下室”をどう扱うかを話しました。
今回取り上げるのは、ドストエフスキー『地下室の手記』。 40歳の元役人が、自意識とこじらせの果てにたどり着いた独白の物語です。
冒頭では、のぞみがテニスウェア販売の現場で感じた“人の選択の不思議さ”を話し、 みきは久しぶりに小劇場のスタッフとして参加した経験から、 「若い人は体と魂がピタッとしている」という印象的な言葉で、世代の感覚の違いを語ります。
そこから、二人の話題は自然と“地下室男”へ。 のぞみは「SNSでとりあえず怒ってみる人たちと似ている」と感じ、 みきは「書かれているのはリアルな感情ではなく、あとから上書きされた認知では?」と分析します。
こじらせた独白にいら立ちながらも、どこか他人事ではいられない。 距離をとって読むからこそ見えてくる、滑稽さと人間らしさについて話しました。
ショーペンハウアーの肝は、「人と一緒にいる時でさえ、内側に孤独を持ち込む」こと。――言うは易く、どうやって?
みきは、年齢とともに外部の“ガソリン”に頼りがちな自分を見つめつつ、その実践の難しさを素直に語ります。のぞみは、岩波茂雄・山下太郎・南方熊楠の伝記を手がかりに、人が動き続けるためのエネルギー源のちがいを比較。さらに二人は、「会議で話が通じない瞬間」「機内で自分だけ読書灯を点けたとき」など、それぞれの“孤独が立ち上がる場面”を持ち寄って、孤独をネガではなく“状態”として捉え直していきます。
寄り道は『暇と退屈の倫理学』や『死に至る病』まで。最後は「選んだ孤独は良い孤独」というフレーズで、日常に持ち帰れる一行をポケットに。重たさは置いて、手触りだけを残すPart3。
もしショーペンハウアーが友だちだったら、きっと最初から「二軒目」の深さで語り合える人かもしれない。
みきは『孤独と人生』に出てくる「楽しみの三分類(再生力/刺激/感受性)」の切れ味に驚き、のぞみは「誤りは結果から原因を推すところに生ずる」という一節を、直前の会議の出来事と重ねて実感します。
さらに話題は、ショーペンハウアーが語る“愚行を招く三つの種(野心・虚栄心・自負)”から、“安売りされた自負=愛国心”という挑発的なフレーズへ。時代を超えて響く辛口の指摘に、二人は笑い混じりに“スナック・ショーペンハウアー”を妄想します。
終盤では、ひとりで働く心地よさと人を雇う迷いをきっかけに、孤独を「寂しいもの」ではなく「向き合い方しだいの状態」として捉え直す視点へ。
みきが北欧〜バルトを3週間旅したエピソードからスタート。豪華フェリーやオスロのサウナ、街並みに重ねた『ドラクエ』の世界観——移動の合間に読んでいたのがショーペンハウアー『孤独と人生』でした。
本を手がかりに、孤独を「幸福への道」と捉える視点にうなずくみきと、HBR(ハーバード・ビジネス・レビュー)の“職場の孤独”特集を思い出すのぞみ。
「絶対に孤独で、同時に孤独な人は一人もいない」という僧侶の言葉や、ノーベルの独身生活から続く孤独の美学まで、旅と哲学が呼応します。
さらに、ショーペンハウアーと愛犬プードルの逸話から“忠誠と孤独”の関係へ。
北欧の夏休み気分と哲学の硬派なテーマが交差する、肩の力が抜けた対話のPart1。
Part3は、「相互関係ってどんな人のこと?」という話からスタート。 みきは、自然体で相手の話を聞き、新しいものを引き出せる人をイメージ。のぞみは、自分にはあまりその感覚がなかったとしつつ、本に出てきた“相互関係が創造性を引き出す”エピソードに共感します。
そこから話題は音楽の力へ。作中でも音楽が人に良い影響を与える場面が多いことに気づき、みきは最近観た“観客も参加する音楽パフォーマンス”の体験を紹介。どんな気分のときでも入り込める作品の魅力や、声や音の使い方が人を動かす可能性について盛り上がります。
最後は「人の魂はその人のIQがいくつであろうと調和的なものである」という言葉に共鳴しつつ、この本がくれた豊かな読書体験を笑顔で振り返りました。
Part2は、政治演説の話題からユーモアたっぷりにスタート。 大統領演説を“言葉だけで聞く人”と“表情だけで見る人”が、それぞれ別の理由で爆笑してしまうという症例を紹介しつつ、「もしかして強い信念を持ってる人も、何かにうまく“刺さって”盛り上がっちゃってるだけかも?」なんて軽口も。
印象に残った症例として、みきは「体のないクリスティーナ」を挙げます。自分の体の位置感覚(固有感覚)を失いながらも、鏡を見て姿勢を意識するなど工夫を重ねて日常を取り戻そうとする姿に感嘆。一方ののぞみは、「具体的な物事が一切わからなくなった男性」の話から、抽象と具体の“広がり”論争に発展。二人の過去の経験も交えて、「具体は閉じて、抽象は広がる?それとも逆?」と議論が白熱します。
終盤では、オリヴァー・サックスの“ニュートラルで寄り添う”姿勢や、患者と向き合い続ける力に感心。専門家として上からではなく、フラットに接する難しさや、その背景にある想像力・努力についても語り合う回になっています。